纏
これまで二編にわたり、江戸の町づくりとともに四谷が形づくられていった歩み、そして、その地に祀られた稲荷と天王という二つの信仰について見てきました。
日本橋大伝馬町から四谷へ迎えられた「お天王さま」は、在来の稲荷とあわせ祀られ、四谷天王稲荷として人々の信仰を集め、やがて四谷十八ヶ町の総鎮守として崇敬されるようになります。
けれども、江戸っ子たちは、ただ神さまをありがたく拝んでいただけではありません。
神さまを神輿に乗せて町へ繰り出せば、山車を曳き、囃子を鳴らし、踊って騒いで町中が大賑わい。祭りとなれば、俄然血が騒ぐ――それもまた、江戸の人々の信仰のかたちでした。

現在の四谷須賀神社の神輿渡御(イメージ)
さて、町ができ、神さまの素性も見えてきたところで、いよいよ最後は「祭り」の話です。
江戸の人々は、どのように神を迎え、どのように町を挙げて熱狂したのでしょうか。三部作の締めくくりとして、天下祭と天王祭の賑わいをたどりながら、四谷に今も息づく祭礼文化の姿を見ていくことにいたしましょう。
天下祭と天王祭
江戸においては、春から秋にかけて、季節の移ろいとともに祭りの賑わいが町から町へと続いていきました。
二月、初午*の稲荷社の祭礼に始まり、三月には浅草三社権現の観音祭*(現・三社祭)が行われます。六月になると祭礼の季節は最盛期を迎え、疫病退散を願う各地の天王祭をはじめ、山王祭や赤坂氷川祭*などで、江戸の町は大いに賑わいました。八月にも、富岡八幡宮の深川八幡祭り*をはじめ、各地の祭礼が続き、やがて九月の神田祭をもって、祭礼の季節もひとまず終わりを迎えました。
このように、江戸の人々は季節の移ろいとともに祭りを迎え、その賑わいを楽しんでいました。祭りは江戸の暮らしに深く根づき、季節を告げる風物詩でもあったのです。

烏森稲荷社初午祭御旅出の図(東都歳事記)

浅草三社権現祭禮(東都歳事記)

富賀岡八幡宮祭禮(東都歳事記)
数ある祭礼のなかでも、ひときわ特別な存在であったのが、「天下祭(てんかまつり)」と呼ばれた山王祭と神田祭でした。
山王祭は六月に行われる、徳川将軍家の産土神として篤く保護された江戸山王権現(現在の赤坂・日枝神社)の祭礼です。神田祭は九月に行われ、「江戸総鎮守」と称された神田明神(現在の神田神社)の祭礼で、江戸市民から広く崇敬を集めました。
いずれも、祭礼行列に関わる費用の一部を幕府が負担し、その行列が江戸城内に入り、将軍の上覧に供されることもあるなど、江戸幕府から格別の扱いを受けました。こうした幕府との深い結びつきから、両祭礼は「天下祭」と呼ばれ、天和元年(1681年)以降は隔年交互に執り行われるようになります。
祭神を乗せた神輿に加え、各氏子町が誇りをかけて仕立てた山車*が連なり、さらに当番町が趣向を凝らした附祭*(つけまつり)や警固などが加わる祭礼行列は、まさに絢爛豪華そのもの。趣向を競う山車や華やかな練物*が江戸の町を練り歩き、その行列をひと目見ようと大勢の見物人が詰めかける――天下祭は、まさに江戸を代表する一大祭礼でした。

山王祭 其二(江戸名所図会)

神田明神 祭禮(江戸名所図会)
一方、天下祭以外の祭礼のなかでも、とりわけ盛大であったのが天王祭でした。
疫病除けの神として信仰された牛頭天王を祀る天王祭は、祇園祭とも呼ばれ、主に六月に江戸各地の牛頭天王社で催されました。
江戸の「お天王さま」といえば、まず名が挙がるのが、神田明神に祀られた三つの天王社。このほかにも、品川の南北の天王社、浅草蔵前の団子天王、南千住・小柄原のお天王さま(現・素戔嗚神社)などがあり、四谷天王稲荷(現在の須賀神社)もまた、こうした江戸の天王社の一つでした。

品川牛頭天王の神輿洗(江戸名所図会)

浅草蔵前の篠団子祇園会(江戸名所図会)
とりわけ神田明神の三天王社の祭礼は、天下祭にも比肩するほどの盛大な祭礼として、江戸市民の耳目を集めました。その歴史は古く、慶長十八年(1613年)には、神輿を江戸城本丸大手へ運び、奉幣を受けたという記録が残されています。これは、のちに山王祭や神田祭が「天下祭」として確立していくよりも早い時期であり、神田明神の三天王祭が江戸初期から重視されていたことがうかがえます。
また、この三天王社を支えた町々は、伝馬町を中心に、山王祭や神田祭にも公的に奉仕し、天下祭を支える重要な役割を担っていました。つまり、神田明神の三天王祭は、天下祭への奉仕を義務付けられた町人たちにとって、まさに自分たちの町の神様である「お天王さま」の祭りでもあったのです。そうした町人たちの強い思い入れも、祭礼をひときわ盛大なものにした一因だったのでしょう。

歌川貞秀『天王御祭礼宮出之図』1848年
祭礼当日の様子は、当時の風俗を記した『東都歳事記*』に、次のように描かれています。
"祭礼の日になると、家々では冷やした素麺でもてなし、門先には竹や笹飾りが立てられ、夜には軒先に提灯の灯がともった。町々の木戸には忌竹が立ち、大幟や大行灯、さまざまな飾り物が所狭しと並ぶ。往来には神酒所が設けられ、神号を掲げて供物が捧げられた。身分の高低を問わず人々が押し寄せ、その繁盛ぶりは筆舌に尽くし難いほどであった。"(大伝馬町の様子)

大伝馬町天王御旅出の図(東都歳事記)
"神輿が御旅所に鎮座している間の賑わいは、ひときわ華やかであった。小舟町では、往来に楼門を設け、その姿はまるで巨大な行灯のようで、夜ごとに灯火がともされたという。これは正徳年間の頃から始まったものと伝えられる。さらに、大行灯や提灯の明かりが町を照らし、その夜景の美しさは、とても言葉では言い尽くせないほどであった。"(小舟町の様子)

小舟町天王御旅出の図(東都歳事記)
いかがでしょうか。
神酒所に掲げられた大幟や行灯・忌竹、家々を彩る提灯や飾り、年齢や性別を問わず祭礼に集う人びとの姿――。そこには、現代と変わらず、「お天王さま」の祭りを心待ちにし、町ぐるみでその賑わいを楽しむ江戸の人々の姿が浮かび上がってきます。
昼の熱気がそのまま夜へと続き、提灯や大行灯の灯が町を照らす。天王祭は、まさに江戸の夏を彩る風物詩だったのでしょう。
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初午(はつうま)…二月最初の「午(うま)の日」のこと。稲荷神がこの日に稲荷山へ降臨したとの伝承から、全国の稲荷社で祭礼が行われるようになった。
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浅草三社権現の観音祭…浅草寺の本尊・聖観世音菩薩の縁起に関わる三人を祀った三社権現(現在の浅草神社)の祭礼。江戸時代には浅草寺と一体となった神仏習合の祭礼として行われ、現在の「三社祭」へとつながった。
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赤坂氷川祭…赤坂氷川神社の祭礼。八代将軍徳川吉宗の篤い崇敬を受け、宮神輿や多数の山車・附祭が連なる盛大な祭礼へと発展した。最盛期には、山王祭・神田祭に次ぐ規模を誇ったとされる。
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富岡八幡宮の深川八幡祭り…富岡八幡宮の例祭。山王祭・神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられる。江戸時代から深川一帯を代表する祭礼として賑わい、現在も多数の町神輿が繰り出す大規模な祭礼として受け継がれている。沿道から担ぎ手に水を掛けることから、「水掛け祭」とも。
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山車・附祭・練物…山車(だし)は、人形や飾りなどを載せて町を曳く祭礼の出し物。附祭(つけまつり)は、神輿や山車などの正式な祭礼行列に加えられた、踊りや仮装、芸能など趣向を凝らした出し物の総称。練物(ねりもの)は附祭の一種で、人物が華やかな衣装や仮装姿で列をつくり、町を練り歩くもの。
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東都歳事記…天保九年(1838年)に刊行された、斎藤月岑編の江戸の年中行事記。寺社の祭礼や縁日、季節の行事、名所の賑わいなどを月ごとに記しており、江戸後期の暮らしや祭礼の様子を知るうえで貴重な史料。
さて、次は江戸の祭りの具体的な姿について見ていきましょう。
祭礼において、祭神を乗せた神輿が重要な存在であったことは、江戸時代も現在も変わりありません。しかし、江戸の祭りは、現在私たちが思い浮かべる「大勢の氏子が神輿を担いで町を練り歩く祭り」とは、かなり違った姿をしていました。

歌川芳員『神田祭出しづくし』1859年
天下祭など、江戸を代表する大規模な祭礼では、宮神輿の渡御に加えて、各氏子町が山車や附祭(つけまつり)、警固などを繰り出す壮大な祭礼行列が組まれました。町々は、より華やかな行列を仕立てようと、競うように山車や附祭に趣向を凝らし、それらもまた祭礼の大きな見どころとなっていました。
そのため、こうした江戸の大規模な祭礼は、現在の東京で一般的に見られる神輿中心の祭りとは大きく趣を異にし、さまざまな山車や芸能、仮装などが町を埋め尽くす、壮麗で華やかなものでした。

神田明神祭禮 其二(東都歳事記)。大伝馬町の象徴である諫鼓鶏が曳かれる。
江戸の山車は、各氏子町の象徴となる人形や飾りを載せたもので、たとえば大伝馬町の諫鼓鶏*(かんこどり)や南伝馬町の猿のように、それぞれの町が趣向を凝らした山車を繰り出していました。はじめは小さな人形などを飾った比較的簡素なものでしたが、時代とともに人形や飾りは大型化し、やがて車輪を備えた豪壮な山車へと発展していきます。
その高さは、江戸後期には四~五メートル、幕末から明治期にかけては八メートルにも達したといわれます。山車には囃子方*が乗り、太鼓や笛を奏でるほか、なかにはその囃子に合わせて踊り手が舞うものもありました。

山車(神田明神祭禮繪卷)
しかし、山車以上に人々の人気を集めたといわれるのが、附祭(つけまつり)でした。附祭とは、氏子町が趣向を凝らして祭礼行列に加えたさまざまな出し物のことで、仮装して練り歩く「練物(ねりもの)」や、踊りを披露する「踊台」「地走踊」など、多彩な形がありました。
その題材も幅広く、能や浄瑠璃*、歌舞伎など当世の芸能から、草双紙*や伝説といった庶民文化まで、多様な流行を取り込みながら、各氏子町は競い合うように華やかな行列を繰り出しました。

踊台と底 抜屋台(神田明神祭禮繪卷)
また、附祭が大いに人気を集めた理由の一つが、その主役の多くを、十代を中心とする少女たちが務めていたことです。参加者には氏子だけではなく、氏子以外の少女たちも多く加わり、日頃から踊りの稽古を重ね、相当な腕前の舞踊を披露しました。さらに、演目の構成や演出には歌舞伎で活躍した芸人が関わり、囃子方には歌舞伎音楽に携わる専門家も加わるなど、かなり本格的な催しであったことがうかがえます。
華やかな衣装に身を包んだ娘たちが踊りながら町を練り歩き、その後ろでは囃子方が賑やかな音曲を奏でる――。現代風にいえば、さながら「会いに行けるアイドル」のパレードといったところでしょうか。江戸の人々が、その晴れ姿をひと目見ようと熱狂したというのも、どこか現代の私たちと変わらないようで、親しみを覚えます。

地踊りと底抜屋台(神田明神祭禮繪卷)
実は、山車や附祭を伴ったこうした江戸の祭礼文化は、形を変えながら現代にも受け継がれています。
神田祭では現在も山車や附け祭を伴う華やかな神幸祭が行われ、山王祭でも神輿や山車などからなる壮麗な神幸行列が都心を巡ります。また、赤坂氷川祭でも、近年、残されてきた山車の部材や人形の修復が進み、江戸型山車*が再び赤坂の街を巡行するようになりました。
いずれも往時そのままの姿ではありませんが、今なお江戸の祭礼文化の面影を色濃く伝えています。
神田祭は五月、山王祭は六月、赤坂氷川祭は九月に執り行われています。ぜひ一度足を運び、江戸の人々を熱狂させた祭りの賑わいに、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

現在の赤坂氷川祭の山車(イメージ)
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諫鼓鶏(かんこどり)…古代中国の伝説に由来する、太鼓の上に鶏を配した意匠。政治への不満を訴えるために置かれた「諫鼓」が鳴らされることもなく、鶏がとまるほど世の中が平和であったことを表す。江戸の神田祭では、大伝馬町の山車に用いられ、一番山車を務めた。
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囃子方(はやしかた)…祭礼や芸能で、笛・太鼓・鉦・三味線などを演奏し、踊りや行列を盛り上げる演奏者のこと。江戸の祭礼では、山車や附祭に加わって音曲を奏で、祭りの賑わいを支える重要な役割を担った。
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能・浄瑠璃・歌舞伎…いずれも日本の代表的な伝統芸能。能は、謡と舞を中心とする中世以来の舞台芸能。江戸時代には、幕府や諸藩の保護を受け、武家社会の「式楽」として重んじられた。浄瑠璃は、三味線の伴奏に合わせて物語を語る語り物で、江戸時代には人形芝居と結びつき、人形浄瑠璃としても大いに発展した。歌舞伎は、芝居・舞踊・音楽を組み合わせた庶民的な舞台芸能で、江戸時代に大いに隆盛した。
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草双紙(くさぞうし)…江戸時代に広く読まれた、挿絵を多く用いた庶民向けの読み物。物語や風刺、滑稽などを題材とし、赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻など、時代とともにさまざまな形式が生まれました。
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江戸型山車…江戸の天下祭などで発達した山車の形式。台車の上に鉾台を組み、最上部に大型の人形を据えるのが特徴で、人形部分を上下させる仕掛けを備えたものもある。こうした山車文化の背景には、京都・祇園祭の山鉾文化があるとされる。江戸ではさらに、江戸城の城門を通過できるよう上部を上下させるなど、独自の発達を遂げた。
天下祭にみる江戸の祭り
天王祭と神輿担ぎ
前章では、天下祭など江戸を代表する大規模な祭礼の華やかな姿を見てきました。では、その祭礼のなかで、神輿はどのように担がれていたのでしょうか。
神田祭や山王祭、赤坂氷川神社の祭礼などでは、あらかじめ定められた人々が白丁(白装束)姿となり、神輿を激しく揺らすことなく、粛々と巡行するのが本来の姿でした。なかでも天下祭では、神輿を担ぐ役は大伝馬町・南伝馬町に課せられた国役*の一つでしたが、実際に神輿を担いだのは、両町が町費で雇った日雇いの人足たちでした。祭礼の期間中、彼らには神社から白丁が貸し与えられ、正式な担ぎ手として神輿の渡御に加わったのです。
これに対して、現代にも通じる、不特定多数の氏子たちが揉み合いながら荒々しく神輿を担ぐ姿は、神田明神の三天王社をはじめ、牛頭天王の天王祭や、江戸周縁部の中小規模の祭礼で多く見られたようです。

白丁姿での神輿渡御(神田明神祭礼絵巻からのイメージ)
神田明神の三天王祭も、本来は白丁による正式な担ぎ方でした。ところが、やがて氏子町の男たちが白丁から神輿を奪うようにして担ぎ始め、押し合い揉み合いながら担ぐ形が次第に定着していったと考えられています。
こうした担ぎ方の違いには、天下祭と天王祭、それぞれの祭礼が持つ性格の違いが関係していたと考えられます。
天下祭では、神輿の製作や修理に幕府の費用が充てられ、神輿担ぎをはじめとする祭礼への奉仕も、国役として町々に課せられていました。いわば幕府の威信を背負った祭礼であり、その渡御には厳格な秩序が求められたのです。
一方、神田明神の三天王祭は、その規模こそ天下祭に匹敵するものの、幕府が祭礼の主体となる天下祭とは異なり、神社と氏子町が中心となって執り行う、「私の祭礼」でした。そのため、天下祭のような厳重な人止めは行われず、神輿担ぎについても、天下祭ほど厳しい統制は及ばなかったようです。

南伝馬町天王神輿渡御の図(東都歳事記)
また、江戸周縁部の中小規模の祭礼では、天下祭のような豪華な山車や附祭に多額の費用をかけることは容易ではありませんでした。そのぶん、神輿を担ぐこと自体が、氏子たちにとって祭りに参加し、その熱気や高揚を楽しむ場になっていったともいわれています。
そして、そこへ飛び込んでいったのが、町の若者たちでした。こうした担ぎ手には、鳶*や駕籠舁*、日本橋魚河岸の若い衆、棒手振商人など、日頃から身体を使って働く人々も多く交じっていたのでしょう。くだけた服装や裸姿の者まで交じり、我先にと神輿へ肩を入れ、押し合い、揉み合いながら担ぐ――。そこには、神輿を担ぐことそのものに熱狂する、江戸の人々の姿がありました。

歌川芳宗『天王御祭禮之図』
幕末期の江戸・京都・大坂の風俗や暮らしを詳細に記録した『守貞謾稿*』には、神田明神の天王祭における、そんな神輿渡御の様子が実に生き生きと記されています。
"神輿が巡行する町々では、若い男たちは「神輿を担げば疫病を免れる」と信じ、こぞって担ごうとした。各町の名主*や家主たちは若者たちを制止したものの、彼らは神輿を高く差し上げたり揺らしたりして、わざと進行を遅らせるほど熱中した。"
"ようやく隣町との境まで来ると神輿を地面に下ろし、それまで担いでいた若者たちと、次の町で担ぐ若者たちが手を打って合図をしながら神輿を受け渡した。そして次の町でも、また同じように担いでいった。"

月岡芳年『祭礼御輿之図』
先を争って神輿を担ぎ、押し合い、揉み合いながら次の町へと受け渡していく――。その姿は、現代の神輿渡御の光景と驚くほどよく似ています。
こうした荒々しい神輿担ぎは、天王祭をはじめ、江戸周縁部の中小規模の祭礼でも盛んに見られました。我先にと神輿へ肩を入れ、声を掛け合い、押し合い、揉み合う――。その熱気のなかには、今もなお江戸の祭りの息遣いが生き続けているのかもしれません。
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国役(くにやく)…江戸幕府が特定の町や人々に課した公的な役務。大伝馬町・南伝馬町などの伝馬町には伝馬役が課され、さらに神田祭や山王祭では、神輿担ぎや御幣持ちなど祭礼行列への奉仕も担った。
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鳶(とび)…建築現場で足場組みや高所作業などを担った職人。江戸ではその技能や機動力を生かして町火消の中心となり、さらに各町に抱えられて、祭礼の準備や神輿・山車の先導など、町内のさまざまな仕事にも携わった。
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駕籠舁(かごかき)…人を乗せた駕籠を肩で担ぎ、目的地まで運ぶことを生業とした人々。江戸の重要な交通手段を支え、日頃から重い駕籠を担いで長い距離を歩く仕事であったため、強い足腰や肩を備えていた。
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守貞謾稿(もりさだまんこう)…江戸時代後期、喜田川守貞が江戸・京都・大坂の風俗や暮らしを詳しく記録した随筆。衣食住から商売、祭礼、芸能に至るまで幅広く記され、幕末期の都市生活を知るうえで貴重な史料。
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町名主(まちなぬし)…江戸の町人地で、町奉行所の支配のもと町の運営を担った町役人。触書の伝達、人別の把握、町入用の管理、揉めごとの調整などを行い、町内では大きな権限と影響力を持っていた。
このコラムも、ずいぶん長くなりました。
最後に、明治以降、天王祭がどのような道をたどったのかを振り返ってみましょう。そして最後は、四谷・須賀神社に今も息づく天王祭の伝統へと話を戻し、この長いコラムに幕を引くことにします。
明治時代は、神社や祭礼にとって、大きな変革の時代でした。
明治元年(1868年)の神仏分離政策は、江戸の神社にも大きな変化をもたらしました。
神仏習合のもとで用いられてきた「天王」や「権現*」などの名称が改められ、神田明神は神田神社に、江戸山王権現社は日枝神社に、四谷天王稲荷は須賀神社へと改称されました。
神田明神に祀られていた牛頭天王三社も、南伝馬町持ちの一ノ宮は須賀神社に、大伝馬町持ちの二ノ宮と小舟町持ちの三ノ宮は八雲神社に改称されます。

神仏判然令を採録した「太政類典」
神社名の改称に続いて、氏子の区域も大きく整理されました。明治4年(1871年)以降、東京府では、各町ごとに氏神を原則一社に定めるかたちで、氏子区域の整理が進められていきます。
その結果、大伝馬町と小舟町は神田神社の氏子町となりましたが、南伝馬町は日枝神社の氏子町となりました。
ところが、南伝馬町が「お天王さま」として祀ってきた一ノ宮は、依然として神田神社の境内にあります。つまり南伝馬町は、氏子としては日枝神社に属しながら、自分たちの「お天王さま」は神田神社に祀られているという、なんとも複雑な状態になったのです。
明治18年(1885年)、一ノ宮の須賀神社は、火災による社殿の焼失を契機に、古称である「江戸神社」へと改称されました。

現在の神田神社摂社・江戸神社(イメージ)
日枝神社の氏子町となった南伝馬町の人々は、一ノ宮を日枝神社へ遷座させようと神田神社へ申し入れました。しかし、神田神社側から、古くから深い由縁のある摂社を他の神社へ遷すことはできないとして、断られます。そこで今度は、牛頭天王信仰の中心であった京都・八坂神社から分霊を迎え、日枝神社に奉祀したいと東京府へ願い出ますが、これも聞き届けられませんでした。
それでも南伝馬町の人々は諦めません。明治19年(1886年)、日枝神社末社の猿田彦社*に、一ノ宮であった江戸神社の分霊を遷し、「八坂神社」の名でともに祀ることとなりました。

現在の日枝神社末社・八坂神社(イメージ)
こうして、南伝馬町の「お天王さま」への信仰は、神田神社境内の摂社・江戸神社と、日枝神社境内の末社・八坂神社という、二つのかたちで受け継がれていくことになります。
日枝神社末社の八坂神社では、南伝馬町の人々によって天王祭が営まれるようになりました。その後、江戸時代にみられたような大規模な神輿渡御は行われなくなりましたが、八坂神社そのものは現在も日枝神社の末社として祀られ、例祭も受け継がれています。
一方、神田神社摂社の江戸神社は、大正9年(1920年)、神田市場*組合の五ヶ町が社殿の再興に乗り出したことを契機に、「神田市場五ヶ町持ち」となります。

東京における町神輿発展の画期の一つとされる深川八幡祭(明治42年)
このころ、東京の祭礼もまた、大きく姿を変えつつありました。
江戸の祭礼を彩った巨大な山車は、明治になると次第に町から姿を消していきます。電線の架設や市電の敷設によって曳行が難しくなったことに加え、幕府という大きな後ろ盾を失い、祭礼の費用を氏子町が自ら負担するようになったこと、さらに不景気*や山車の破損など、いくつもの事情が重なったと考えられています。
そうしたなか、山車に代わるように、各町が自らの神輿を仕立て、揃いの半纏姿で威勢よく担ぐ「町神輿」が、東京各地で盛んになっていきました。その大きな契機の一つとなったのが、明治42年(1909年)の富岡八幡宮の深川八幡祭りです。この祭礼では、氏子町から大小六十一基もの町神輿が繰り出されました。
大正時代は、まさに現在の東京の祭りにも通じる町神輿の文化が花開いた時代だったのです。

大正十年九月神田市場江戸天王祭絵巻 其六 通新石町歳神山車

大正十年九月神田市場江戸天王祭絵巻 其二 連雀町熊坂山車
そんな時代の熱気のなか、大正10年(1921年)には、神田市場を舞台に「江戸天王祭」が華々しく行われました。江戸神社の神輿を中心に、町神輿や子どもたちの行列が加わり、各町には山車や山車人形も飾られ、落語や芸妓による芸能も催されるなど、新聞に取り上げられるほどの盛大な祭礼となりました。
現在の江戸神社は神田神社の摂社として祀られ、二年に一度の神田祭本祭では、江戸神社奉賛会の人々によって千貫神輿が担ぎ出され、神田明神へ宮入します。かつて南伝馬町の「一ノ宮」として江戸の町を巡った「お天王さま」の祭りは、担い手や祭礼のかたちを変えながら、今も神田の祭りのなかに息づいているのです。

神田明神に宮入する千貫神輿は一ノ宮由来のもの(イメージ)
一方、三ノ宮の小舟町八雲神社もまた、現在も神田神社の摂社として祀られています。
かつて団扇問屋の多かった小舟町では、祭礼の際、神輿に向かって団扇を投げ入れる風習があり、「団扇天王」とも呼ばれました。また、日本橋魚河岸*とも深い縁を持ち、魚問屋仲間からも篤く崇敬されるなど、町の人々に親しまれてきた「お天王さま」でした。
小舟町八雲神社の祭礼は、現在も「小舟町八雲神社天王祭」として、原則四年に一度執り行われています。祭礼では、日本橋小舟町に壮大な御仮屋が設けられ、本社大神輿の渡御をはじめ、宵宮、子供神輿など、町を挙げて数日間にわたる祭りの賑わいが繰り広げられます。
町を挙げて「お天王さま」を迎えるその風景には、江戸時代の三天王祭の面影が、今も色濃く残されています。

春斎年昌『日本橋魚がし旧天王祭団扇投之 図』1889年
最後に、二ノ宮の大伝馬町八雲神社はどうなったのかを見ていきましょう。
大伝馬町八雲神社は、現在も神田神社の摂社として祀られ、例祭も行われています。しかし、江戸時代のように、日本橋の大伝馬町周辺から神田の町々を巡った天王祭の神輿渡御は、今では見ることができません。かつて町々を沸かせた二ノ宮の神輿渡御を、今では見ることができないのは、やはり惜しまれるところです。
その一方で、江戸初期、この二ノ宮から牛頭天王を勧請した四谷では、「お天王さま」の祭りが時代を越えて受け継がれてきました。大伝馬町の人々によって勧請された牛頭天王を、在来の稲荷とともに祀ったのが、これまでたどってきた四谷天王稲荷――現在の須賀神社です。

祇園会 大伝馬町御旅所(東都歳事記)
四谷の天王祭でも、町の人々が神輿を担ぎ、その熱気を楽しむ姿が古くから見られました。万延元年(1860年)の記録でも、曲太鼓や獅子とともに三基の神輿が、押し合い揉み合いながら担ぐ「もみ担ぎ」で繰り出され、祭礼が大いに賑わった様子が記されています。そして明治に入ってからも、須賀神社の「天王祭」は続けられていました。
神田三天王の祭礼が、明治維新を境にそれぞれ大きく姿を変えていった一方で、四谷では「お天王さま」を祀る祭りが受け継がれてきました。四谷天王稲荷は須賀神社と名を改めましたが、祭りの季節が巡れば神輿が町へ繰り出し、人々が肩を入れ、声を掛け合い、町を挙げて神さまを迎える――江戸の昔からこの町で育まれてきたその営みは、今も四谷の町に息づいています。

現在の四谷の宮神輿渡御(イメージ)
江戸の夏、人々を熱狂させた「お天王さま」の祭り。
神さまの名も、町の姿も、祭礼の形も、時代とともに変わりました。
それでも六月になれば、四谷の町には太鼓と掛け声が響き、神輿が路地を練り歩きます。
そこにあるのは、ただ昔の祭りの面影ではありません。
江戸初期にこの町に根づき、時代とともに姿を変えながら、今へと受け継がれてきた「お天王さま」の祭り、そのものなのです。

新宿通りを進む四谷各町会の町神輿(イメージ)
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権現(ごんげん)…仏や菩薩が、人々を救うために日本の神の姿となって現れたものを指す、神仏習合の考え方にもとづく呼び名。江戸時代には、日枝山王権現や熊野権現など、多くの神社で用いられた。
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猿田彦社(さるたひこしゃ)…猿田彦大神を祀る神社。猿田彦大神は、天孫降臨の際に道案内をした神として『日本書紀』などに登場し、道開き・交通安全などの神として信仰される。
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神田市場(かんだいちば)…江戸時代以来、神田多町・須田町周辺に発達した青物市場を母体とする市場。東京の代表的な青果市場の一つとして栄え、のちに中央卸売市場神田分場となった。平成元年(1989年)、大田市場の開設に伴って移転・統合された。
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不景気…明治から大正にかけて、日本経済はたびたび景気後退に見舞われた。山車が衰退し始めた明治20年代には、企業勃興の反動による不況があった。その後も景気の波は続き、大正9年(1920年)には第一次世界大戦後の反動恐慌が起こった。こうした不況は、多額の費用を要する山車の新調や維持を難しくする一因となった。
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日本橋魚河岸(にほんばしうおがし)…江戸時代、日本橋川沿いに発達した魚市場。江戸近海などから集まる魚介類を扱う魚問屋や仲買が軒を連ね、「江戸の台所」を支える一大市場として栄えた。関東大震災後に市場機能は築地へ移り、のちの築地市場へとつながった。
天王祭のゆくえ
あとがき
四谷の神輿担ぎには、「四谷担ぎ」と呼ばれる、神輿を水平に保ち、上下に揺らさず、すり足で進む独特の担ぎ方が残されています。初めて四谷で神輿を担いだときから、私はこの「四谷担ぎ」の由来に興味を持ち、いつか調べてみたいと思っていました。ところが、少し調べたくらいでは、その由来は「不明」とされていることがほとんどです。
今回、四谷須賀神社の例大祭について、その起源をたどってみようと思い立ったのですが、予想以上に奥が深く、気がつけばずいぶん深入りしてしまいました。
「四谷担ぎ」の由来もそうですが、四谷だけを対象とした歴史資料は、思いのほか多くありません。戦後、四谷区が牛込区・淀橋区と統合されて新宿区となったこともあり、現在では「四谷」という地域だけをまとまって扱った郷土資料を探すのは、なかなか大変です。とはいえ、資料がまったくないわけではありません。図書館などで一つひとつ資料を追いかけ、それらをつなぎ合わせながら書いたのが、このコラムです。
私が学生だった頃には考えられないほど、現在では学術論文や古い書籍、貴重な史料の電子化が進んでいます。隔世の感を覚えるとともに、図書館や公文書館、大学などが資料を公開してくださっていることのありがたさを、今回あらためて実感しました。
また祭礼については、牧田勲先生、岸川雅範先生、三隅貴史先生をはじめとする先行研究の蓄積にも、大いに助けられました。
そんなこんなで苦心して書き上げたコラムですが、四谷の地域史をたどる資料としては、かなりまとまったものになったのではないかと、自画自賛しています。
さて、ここで最初の疑問、「四谷担ぎ」の由来に戻ります。
本稿でも触れたとおり、幕末の万延元年(1860年)の四谷天王稲荷では、神輿を押し合い揉み合いながら担ぐ「もみ担ぎ」が行われていたことが確認できます。ほかの江戸期の史料から、四谷で同じ担ぎ方が続けられていたことまでは確認できませんでしたが、牛頭天王を祀る天王祭ではこうした荒々しい担ぎ方が多く見られ、江戸周縁部の中小規模の神社祭礼でも「揉み合い型」の神輿担ぎが行われていたことを考えると、幕末の四谷で「もみ担ぎ」が行われていたこと自体は、決して不思議ではありません。
ところが、明治31年(1898年)になると、四谷の若者たちが神輿を荒く扱い、揉み上げて大騒ぎすることを防ぐため、宮神輿を白丁に担がせ、若集たちを大いに失望させたという記録が現れます。
この措置と、現在の「四谷担ぎ」との間に、どのような関係があるのかは分かりません。
ただ、天下祭などで白丁が神輿を揺らすことなく粛々と運んだ、いわゆる「儀式型」の担ぎ方と、神輿を水平に保ち、上下に揺らさず、すり足で進む現在の「四谷担ぎ」。私にはどうしても、この二つをまったく無関係とは思えないのです。
ここから先は、あくまで私の想像です。
少なくとも幕末の四谷では、「もみ担ぎ」が行われていました。ところが明治の後半、神輿を荒く扱い、揉み上げて大騒ぎすることを防ぐため、町の若者たちは宮神輿の担ぎ手から外され、白丁がこれを担ぐことになります。
そして、その後、若者たちが再び神輿を担うようになる過程で、神輿を激しく揉み上げない担ぎ方が受け入れられ、それがやがて四谷独特の「四谷担ぎ」として定着していった――。
そんな想像もできるのではないでしょうか。
この文章は学術論文ではなく、地域の歴史をたどるコラムです。新しい史料や研究が見つかれば、既存の記事も随時書き改めていくつもりです。
今後とも、新しいコラムや、少しずつ育っていく既存のコラムを楽しんでいただければ幸いです。
四谷・荒木町に居を構えてしばらく経ちますが、この町には、まだまだ知らない伝統や風習が残されています。知れば知るほど、好奇心は尽きません。
好奇心は猫を殺すといいますが、はてさて。
参考文献リスト
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岸川雅範「江戸・東京の祭礼文化―江戸天王祭を中心に―」『明治聖徳記念学会紀要』復刊第52号、2015年、101–132頁。
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岸川雅範『江戸天下祭の研究―近世近代における神田祭の持続と変容― 神田明神選書5』岩田書院、2017年。
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岸川雅範『江戸の祭礼』角川選書、KADOKAWA、2020年。
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岸川雅範「江戸の神社祭礼と芸能―神田祭の変遷―」『比較舞踊研究』第25巻、2019年、1–11頁。
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亀川泰照「江戸の鎮守祭礼と山車屋―四谷稲荷・天王両社祭礼を中心に―」『駒沢史学』第89号、2017年、261–304頁。
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牧田勲「江戸の神輿と領主法規制―神輿舁をめぐる法と無法―」『京都民俗』第9号、1991年、1–29頁。
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吉原健一郎「江戸天王祭覚書」『日本常民文化紀要』第21輯、成城大学大学院文学研究科、2000年、215–232頁。
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大東敬明「江戸の祭―天下祭と天王祭―」『國學院大學神道資料館 館報』第15号、國學院大學研究開発推進機構学術資料館神道資料館部門、2016年、12–15頁。
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豊田和平「江戸の天下祭り」『比較都市史研究』第20巻第2号、2001年、11–23頁。
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三隅貴史「地域住民―地域外参加者関係からみる江戸・東京の祭礼史」佛教大学宗教文化ミュージアム編『都市祝祭―歴史地理学者にはどう見えるのか?』2021年。
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作美陽一『大江戸の天下祭り』河出書房新社、1996年。
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尾方伸輔編著『四谷惣鎮守須賀神社由来記』須賀神社、1963年。
改訂履歴
2026年9月 初出
