江戸の搦め手
からめて
江戸城の西方、いわば搦め手に位置した四谷は、五街道の一つである甲州街道の要衝として、警備のための見附や大木戸が設けられ、多くの大名や旗本が屋敷を構えていました。

江戸時代の切絵図(四谷周辺)
江戸時代、現在の荒木町一帯には、美濃高須藩・松平摂津守家(四谷松平家)の上屋敷が置かれ、広大な庭園には落差四メートルにも及ぶ滝と大きな池が設けられていました。
いまも荒木町には、多数の階段や坂に囲まれたすり鉢状の地形と、弁財天に抱かれた「策の池(むちのいけ)」が残り、往年の大名庭園の佇まいを今日に伝え ています。

松平摂津守家に縁を持つ金丸稲荷神社(イメージ)
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搦め手(からめて)…城や砦における正面入口に対し、背後や側面に設けられた出入口、または防御上の要所を指す語。主として防衛や非常時の動線として用いられた。対義語は「大手(おおて)」。
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見附(みつけ)…城郭や城下町の要所に設けられた、城門や番所を備える監視・警備施設。江戸城周辺には三十六の見附が置かれ、四谷見附もその一つに数えられる。
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大木戸(おおきど)…街道筋に設けられた木戸(門)を備える関所の一種。江戸時代初期、四谷大木戸は江戸の出入口の一つとして機能し、夜間には通行を制限するため木戸が閉じられていた。街区の拡大に伴い、その役割を終えて寛政4年(1792年)に廃止された。なお、甲州街道最初の宿場町である内藤新宿は、四谷大木戸の外側、すなわち江戸の市域外(現在の新宿御苑前駅周辺)に開設されている。
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上屋敷(かみやしき)…大名が江戸に構えた屋敷のうち、大名本人や正室・嫡子が居住し、藩の政務や対外的な折衝を担う中枢機能が置かれた屋敷を指す。
明治の廃藩置県の後、一般に開放された松平邸の庭園は、滝や池を擁する風光明媚な景勝地として、東京市民の人気を集めました。
池の周囲には、滝見や舟遊びに訪れる人々を当て込んだ茶屋や料亭、芝居小屋が軒を連ね、やがて花街が形成され、大いな賑わいを見せたと伝えられています。

明治初期の策の池(新宿歴史博物館蔵『四ツ谷伝馬町新開遊覧写真図』歌川国輝)
花街がその役割を終えた現在の荒木町では、芸者で賑わった往時の茶屋や料亭こそ姿を消しましたが、多彩な飲食店が並ぶ活気ある街並みや、風情を残す石畳の路地からは、粋な芸者衆が行き交った花街の面影を、いまなお見ることができます。

現在の策の池と津の守弁財天(イメージ)
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廃藩置県(はいはんちけん)…明治4年(1871年)に実施された行政改革。全国の藩を廃止し、地方統治を中央政府直轄の府・県に一元化した。これにより、近代的な中央集権国家体制が確立されることとなった。
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花街(はなまち/かがい)…芸妓(芸者)による座敷遊びを提供する料理屋や待合茶屋を中心に形成された街区のこと。「花柳(かりゅう)」とも呼ばれる。料理屋・待合茶屋・置屋(芸者小屋)が揃うことから、「三業地(さんぎょうち)」とも称される。
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粋(いき)…江戸生まれの美意識。飾らず、洗練された振る舞いのこと。対義語は「野暮」。
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芸者(げいしゃ)…芸をもって客をもてなす職業。ここでいう芸とは、舞、唄、三味線、囃子などを指し、加えて洗練された所作や会話の作法も重んじられた。伝統的には置屋に所属し、茶屋や料亭などへ派遣される形で活動する。呼称については地域差があり、関東では「芸者」、関西では「芸妓(げいこ)」と称されるのが一般的である。
東京一の景勝地
花街の発展と繁栄
大正から昭和初期にかけて荒木町の花街は拡大し、昭和初頭には二百人を超える芸者を数え、赤坂や新橋にも劣らぬ隆盛を誇りました。荒木町の芸者は「津の守(つのかみ)芸者」と呼ばれ、その気品の高さで知られていたと伝えられています。

津の守芸者像(イメージ)

昭和30年代の芸者と検番(イメージ)
戦時中には山手大空襲によって街区の大半が焼失し、大きな被害を受けましたが、戦後は着実に復興を遂げました。地下鉄丸ノ内線や都営新宿線の開業、町内を南北に貫く外苑東通りが曙橋の開通によって牛込方面と結ばれるなど、交通の利便性も向上し、街は新たな発展期を迎えます。
当時の荒木町は、フジテレビ河田町スタジオや文化放送若葉局舎にほど近い繁華街であったことから、多くの文化人や芸能人が足繁く通いました。粋な旦那衆や事業家が一席を設け、語らいを重ねる――荒木町は、そうした文化サロン的な性格を併せ持つ場所でもあったといわれています。

在りし日の文化放送若葉局舎(イメージ)

フジテレビ河田町スタジオ(イメージ)
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赤坂や新橋にも負けない隆盛…ここでいう新橋とは、「サラリーマンの街」ではなく、中央区銀座一帯に形成された花街を指す。官庁街に近い立地から、赤坂花街と並び、接待や外交の場として重用され、明治期以降は山の手花街を代表する存在であった。その伝統は、現在も新橋演舞場などに受け継がれている。
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山手大空襲…第二次世界大戦末期の1945年5月に行われた、アメリカ軍による東京西部(山の手)地域への大規模空襲。3月のいわゆる下町大空襲によって既に甚大な被害を受けていた東京に対し、総仕上げとばかりにB-29爆撃機500機以上が出撃するという、アメリカ人のものとは思えない几帳面な軍事作戦であった。四谷区、牛込区、麹町区、赤坂区などを中心に広範囲が焼失し、これにより、山の手地域も都市機能に深刻な打撃を受けることとなった。
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フジテレビの河田町スタジオ…1959年から1997年まで使用された、フジテレビジョンの旧本社・制作拠点。「楽しくなければテレビじゃない」のスローガンのもと、『夜のヒットスタジオ』『夕やけニャンニャン』など、数多くの人気番組がここで制作されたが、1997年にお台場の奇妙な形をしたビルに本社機能を移転した。跡地には現在、「河田町ガーデン」というタワーマンションが建っている。
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文化サロン…「サロン」はフランス語で本来「応接室」を意味し、転じて人々が集い交流する社交の場を指す。文化サロンとは、教養や芸術、文化に関心をもつ人々が集まり、語らいや交流を深める場のことをいう。
昭和の終わり、時代の移り変わりとともに花街は幕を閉じ、さらにフジテレビが河田町からお台場へ移転したことで、繁華街としての荒木町は大きな転機を迎えました。一時は往時の賑わいが遠のき、街に静かな時間が流れることもありました。
しかし現在では、新宿に最も近く、花街の風情を今に残す大人の飲食街として再び脚光を浴びています。腕利きの料理人やバーテンダーが技を競い合う街として、多くのメディアにも取り上げられるようになりました。
また、東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目」駅と都営新宿線「曙橋」駅の二路線が利用できる利便性から、都心に近い住宅街としても高く評価され、幅広い層の人々を惹きつけています。

荒木町遠景
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時代の変化…花街の衰退には、複数の時代的要因が重なっていると考えられる。高度経済成長期以降、企業接待の大衆化が進み、敷居の高い花街での座敷遊びに代わって、スナックやクラブ、キャバレーなどを用いた接待が主流となった(社会的要因)。これに加え、石油ショックやバブル崩壊といった経済環境の変化により、花街を支えてきた旦那衆が減少したことも、大きな影響を与えた(経済的要因)。
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大人の飲食街…詳しくは『東京カレンダー』や『dancyu』あたりを参照すると理解しやすい。
花街と江戸の風情を今に伝える街、四谷荒木町――どうぞお見知りおきください。

荒木町のモンマルトルの階段(イメージ)
枯木再生花
美食のまち 美酒のまち
四谷三丁目駅周辺の荒木町エリアには、実に多彩な飲食店が集まり、あらゆるジャンルや価格帯の店を見つけることができます。荒木町を南北に貫く杉大門通り、柳新道通り、車力門通りの三つの通り界隈には、かつての花街の情緒が今なお色濃く残されており、細い路地に至るまで二百を超える飲食店が軒を連ねています。

多様な飲食店やバーが立ち並ぶ車力門通り(イメージ)
この界隈には、ミシュランガイドに掲載される店も数多く、和食から各国料理まで幅広いジャンルの店が高い水準で技を競い合い、舌の肥えた食通たちを魅了しています。
近年では、若い世代に人気のカジュアルなダイニングバーや、気軽に立ち寄ることのできる小さな飲食店も増え、街の魅力に新たな彩りを添えています。
また、通好みの銘柄や希少な酒を取り揃えた秀逸なバーや居酒屋が数多く点在していることも、この街ならではの粋な魅力です。
荒木町は、格式と親しみやすさが自然に共存する街として、幾重にも重なる豊かな食文化を育みながら、今なお進化を続けています。

隠れ家的な名店も立ち並ぶ柳新道通り(イメージ)
四谷は、『四谷怪談』や『鬼平犯科帳』をはじめ、古くから文学や演劇、映像作品の舞台となってきました。近年では、多くの映像作品のロケ地や舞台としても知られ、とりわけ新海誠作品ゆかりの地として注目を集めています。
2016年公開の『君の名は。』では、四谷は東京パートの主要な舞台の一つとして描かれています。クライマックスで主人公たちが再会する階段は、須賀神社の男坂として実在しており、多くのファンが訪れる名所となっています。

須賀神社に実在する例の階段(イメージ)
また、2013年公開の『言の葉の庭』では、新宿副都心に隣接する新宿御苑が、雨に包まれることで、都会の喧騒を忘れさせる幻想的で情緒あふれる空間へと姿を変えていく様子が、美しく描かれています。
荒木町は、これらのゆかりの地から徒歩圏内に位置しています。多彩な飲食店が軒を連ねる街並みを眺めながら、四谷の歴史に触れ、映画の舞台を巡る散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。

新宿都心の遠景が雨に映える新宿御苑
創作の舞台としての四谷
須賀神社と例大祭
毎年6月の第1金・土・日曜日と翌月曜日には、須賀神社の例大祭が開催され、四谷一帯は祭り一色の賑わいに包まれます。
須賀神社は、江戸の街が形成された17世紀前半に現在の姿となり、以来、四谷の総鎮守として篤い信仰を集めてきました。祭神は、疫病除けの神として知られる須佐之男命と、繁栄や五穀豊穣を司る稲荷大神です。
江戸時代には、須佐之男命は同じく疫病除けの神である牛頭天王と習合していたことから、この祭礼も江戸の「天王祭(祇園祭)」のひとつとして大いに賑わいました。

須賀神社の本殿
現在でも、二年に一度の本祭では、須賀神社から宮神輿が渡御し、四谷十八ヶ町を巡行します。境内には数多くの露店が立ち並び、昔ながらの祭りの賑わいを今に伝えています。
また、四谷の各町内でもそれぞれに祭礼が催され、町神輿が町々を練り歩くほか、多彩な催しが繰り広げられます。
荒木町でも、町内神輿が町の隅々まで巡行し、通り沿いに軒を連ねる多くの飲食店から振る舞いが行われるなど、この時期ならではの活気あふれる光景が広がります。江戸から受け継がれてきた祭りの熱気を、今なお身近に感じることのできる四谷の風物詩です。





