石畳の迷宮
荒木町の街角は、石畳の路地や階段が迷路のように入り組み、趣ある店舗や家並みと相まって、どこか懐かしい情趣を漂わせています。路地に敷き詰められた石畳は、昭和四十年代に廃線となった都電の敷石を再利用したもの。芸者衆が下駄を鳴らし、石段を行き交った往時の面影を、いまも感じることができます。
もっとも、明治から昭和初期にかけての花街・荒木町は、未舗装の土の道でした。雨が降ればぬかるみ、裾を汚すこともしばしばで、芸者衆を悩ませていたと伝えられています。細い路地や袋小路まで舗装された現在では、雨の日でも足元を気にせず、荒木町特有のすり鉢状の地形の底までゆったりと散策できるようになりました。
雨に濡れた石畳はひときわ趣を増し、荒木町の景観にいっそう深い味わいを添えてくれます。

石畳を歩く芸者(イメージ)

石畳の道(車力門通り↔柳新道通り)

雨に濡れる石畳の道
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廃線となった都電…昭和45年(1970年)に廃止された都電12系統を指す。新宿駅を起点に新宿通りを東進して四谷へ至り、半蔵門方面を経て北上、神田須田町・岩本町を通り両国駅までを結んでいた。昭和30年代頃までは四谷地域と新宿を結ぶ庶民の足として利用されていたが、自動車交通の増加や地下鉄丸ノ内線の開通などに伴い、その役割を終えた。
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すり鉢地形…周囲より低く窪んだ谷状の地形を指す。上空から見ると擂鉢(すりばち)のような形状をしていることから、この名で呼ばれる。荒木町の窪地は、四方を崖や急傾斜に囲まれた地形を成していることから、愛好家の間では「A級すり鉢地形」と評されており、極一部の人から「聖地」として崇め奉られているらしい。
荒木町の中央を南北に走り、個性豊かな飲食店が軒を連ねる車力門通りは、その中ほどに特徴的な枡形(クランク)を有しています。その傍らには、小ぶりながらも厳かな佇まいを湛える金丸稲荷神社が鎮座しています。
金丸稲荷神社は、松平摂津守家上屋敷の屋敷稲荷(邸内社)として天和年間(1681〜1684年)に創建されたものです。明治以降、町内で幾度か遷座したのち、現在の地に落ち着きました。外周の石柱には、かつてこの地にあった料亭の名をはじめ、多くの寄進者の名が刻まれており、荒木町が花街として栄えた時代に篤く信仰を集めていた事跡が偲ばれます。
神社背後の荒木公園には、かつて検番(芸者小屋)が置かれていました。芸者衆はここで支度を整え、席に呼ばれると金丸稲荷にごあいさつしてお座敷へと向かったことでしょう。
現在の荒木公園は、花見や祭礼、盆踊りなどの催しに活用され、地域の人々の憩いの場となっています。


金丸稲荷神社(正面)
車力門通りのクランク

荒木公園
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桝形(ますがた)…城郭防御のため、敵の進入を抑える目的で道路や出入口を直角に折り曲げた構造を指す。転じて、直角に折れ曲がる道路形状のことをいう。いわゆる「クランク」とも呼ばれる。荒木町にみられる桝形道路は、城郭防御を目的としたものではないが、その成立は古く、明治期の地図にも確認できる。旧大名屋敷内の地形や勾配を避けるために設けられたものと考えられる。
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稲荷神社(いなりじんじゃ)…農耕神・商業神として信仰される稲荷神を祀る神社の総称で、日本各地に広く分布する。総本宮は京都の伏見稲荷大社。主祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)とされることが多く、五穀豊穣や商売繁盛の神として信仰を集めてきた。江戸時代には、大名が領国の稲荷社を勧請し、江戸屋敷内に屋敷神(邸内社)として祀る例も多く見られた。金丸稲荷神社も、その系譜に連なるものだろう。
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検番(けんばん)…花街において、置屋(芸者を抱える事務所)や芸者を統括する組織、またはその事務所を指す。芸者と料亭・茶屋などの間を仲介し、出演の手配や料金の管理を担ったほか、芸者の待機場所や稽古場を設けるなど、花街運営の中心的役割を果たした。
大名屋敷の守り神
池の畔の弁天さま
ほとり
四方を急な勾配に囲まれた窪地を町域の中心に抱く荒木町は、その特徴的な地形から「すり鉢地形の街」としても知られています。この凹地の底には、かつて広大な池が水を湛え、その周囲には料亭や茶屋が軒を連ね、賑わいを見せていたと伝えられています。いまも花街の風情を残す石畳の階段を下ると、往時の大池の名残である策の池(むちのいけ)と、その畔に佇む津の守(つのかみ)弁財天が姿を現します。
策の池の名は、徳川家康が鷹狩りの帰途、この地に湧く名水を口にし、馬の策(鞭・むち)を洗ったという伝承に由来します。湧水は滝となって谷間を落ち、池を満たしたのち、近隣の紅葉川へと注いでいました。池の畔には古くから弁天祠が祀られており、これが津の守弁財天の起こりとされています。
やがて松平摂津守家の屋敷が造営されるにあたり、下流に堤を築いて水流を堰き止め、湧水を活かした広大な池が整えられました。落差四メートルの滝と雄大な池を備えた回遊式庭園は、明治以降、景勝地として滝見や舟遊びの客を集め、花街・荒木町発展の礎となったといいます。
最盛期にはおよそ四千五百平方メートル(サッカーコート半面ほど)を誇った大池も、いまは湧水が絶え、窪地南端の滝壺部分のみを残すばかりとなりました。高く迫る崖面と、その上に立ち並ぶビルやマンションに囲まれたその空間は、まるで都心に穿たれた「器」の底のようです。そこから見上げる空は切り取られたかのように狭く、荒木町特有のすり鉢状の地形と、その高低差を肌で実感させてくれます。津の守弁財天の優美な佇まいと相まって、ここには今なお、かつての景勝地の面影が静かに息づいています。

津の守弁財天(後方の崖にかつての滝口があった)

荒木町の窪地の底に通じる石畳の階段

明治期の滝見のイメージ
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凹地(おうち)…周囲よりも低く凹んだ地形、すなわち窪地のこと。これほど文字の象形から意味を想像しやすい言葉はない。
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鷹狩り(たかがり)…鷹などの猛禽類を用いて獲物を捕える、日本の伝統的な狩猟法。主な獲物は雉、鴨、兎などで、「鷹を狩る」のではなく、鷹を使って狩りを行う。鎌倉時代以降は武士の武芸・実践訓練の一環として重視され、江戸時代には将軍家の重要な行事ともなった。とりわけ徳川家康が愛好したことでも知られる。
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紅葉川(もみじがわ)…市ヶ谷富久町の饅頭谷(まんじゅうだに)付近を水源とし、靖国通り沿いを東流して飯田橋付近で神田川に合流していた河川。現在は暗渠化されているが、曙橋周辺の起伏や道路の形状などに、その流路の痕跡を見て取ることができる。
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弁財天(べんざいてん)…七福神の一柱で、七福神の中では唯一の女神とされる。もとはヒンドゥー教の女神サラスヴァティーが仏教に取り入れられ、日本に伝来した神格である。神仏習合の過程で、神道では宗像三女神の一柱・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と同一視されることが多い。水を司る神であるとともに、音楽・芸能・学問の守護神としても広く信仰を集めてきた。その性格から、津の守弁財天が当地の芸者衆のあいだで篤く信仰されていたのも、自然なことといえる。
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回遊式庭園(かいゆうしきていえん)…園内を巡り歩きながら、視点の移動に応じて変化する景観を楽しむ日本庭園の形式。とくに池を中心に据えたものは「池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)」と呼ばれる。代表例として、金沢の兼六園、小石川後楽園、六義園などが挙げられる。江戸時代に大名庭園として発展し、様式として完成をみた。
日が暮れ、風情ある石畳の路地へ足を踏み入れると、どこか懐かしい趣を湛えた飲食店が数多くあることに気づきます。
こぢんまりとしたカウンターで温かく迎えてくれる小料理屋、昭和の香りを色濃く残すオーセンティックバー、世代を超えて愛されるスナック――荒木町は、まさに美食と美酒の迷宮です。
芸者衆が行き交った雅な時代に思いを馳せつつ、大人の街・荒木町の夜を味わってみてはいかがでしょうか。そこには、きっとあなたの理想の一軒が待っています。

