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荒木町コラム

アンパンマンと荒木町

​アンパンマンのお店

谷三丁目駅にほど近い外苑東通り沿いにある「やなせたかしの店 アンパンマンショップ」は、国民的キャラクター・アンパンマンのグッズを扱う専門店として、四谷界隈の人気スポットとなっています。

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四谷三丁目のアンパンマンショップ(イメージ)

アンパンマンの生みの親であるやなせたかし氏は、新宿区の名誉区民として広く知られていますが、その足跡をたどると、実は荒木町にも深いゆかりをもつ人物です。本稿では、やなせたかし氏と荒木町との、あまり知られていない縁をひもといてみたいと思います。

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やなせたかし氏(イメージ)

なせたかし(柳瀬嵩)氏は、1919年(大正8年)、東京府北豊島郡滝野川(現・東京都北区)に生まれました。編集者や新聞社特派員として活躍した多才な父のもと、比較的裕福な幼少期を過ごしますが、父が中国・アモイ(厦門)で客死したことにより、父方の実家がある高知県高知市へ移ります。そこで医師であり趣味人でもあった伯父のもとで育てられますが、その教養と自由な気風に満ちた環境が、やなせ氏の人格形成や感性の礎となりました。幼少期から絵画に強い関心を抱いていたやなせ少年は、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)に進学。卒業後はデザイナーとして一般企業の宣伝部に就職します。

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やなせ少年と母・登喜子さんの肖像(イメージ)
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新入社員時代のやなせ青年(イメージ)

しかし戦況の悪化に伴い徴兵され、陸軍に入営。福州(現・福建省)へ出征し、日中戦争下の中国で苛烈な戦争体験を重ねます。従軍の理不尽さや極限の飢餓、さらに戦争で弟・千尋を失った喪失感は、やなせ氏の善悪観や戦争観に深い影響を与えました。こうした体験を通して培われた思索は、のちに生み出される作品の主題やキャラクター造形にも色濃く反映されることになります。

戦後は高知で復員し、高知新聞社に入社。1947年(昭和22年)に再び上京し、同郷の小松暢(こまつのぶ)と結婚しました。漫画家として活動する傍ら、グラフィックデザイナー、作詞家、放送作家、舞台美術家、詩人、絵本作家など多方面で才能を発揮します。

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壮年期のやなせたかし氏(イメージ)
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やなせ氏の妻・小松暢氏(イメージ)

1969年(昭和44年)、やなせ氏は、苦しみや空腹の前では無力になりがちな正義を問い直し、困っている人に寄り添うことを何よりも大切にするキャラクターとして、アンパンマンを発表しました。当初は大きな注目を集めるには至りませんでしたが、発表から二十年近い歳月を経た1988年(昭和63年)、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』として放映されると、予想を上回る支持と高い視聴率を獲得し、瞬く間に国民的な人気を博します。その後は長寿番組として定着し、世代を超えて愛され続ける存在となっています。

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寄り添うヒーロー(イメージ)

​1993年(平成5年)、妻・暢に先立たれたのち、やなせ氏は独身を貫きました。晩年のやなせ氏は、日本漫画家協会の理事長として後進の育成にも尽力し、その功績と温かな人柄から多くの敬意を集め、新宿区名誉区民としても広く親しまれました。2013年(平成25年)、94歳で天寿を全うするまで、創作を通して人々に寄り添い、子どもたちに笑顔と希望を届け続けました。

2025年(令和7年)には、NHK連続テレビ小説において、やなせ氏とその妻・小松暢をモデルとした『あんぱん』が放送されました。数々の困難を乗り越え、昭和の時代を生き抜いた末に大器晩成を遂げた二人の歩みが丁寧に描かれ、その人生にあらためて光が当てられたことで、大きな反響を呼びました。

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朝ドラ主演に浮かれるふたり(イメージ)
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すこしイケオジ風のやなせ氏(イメージ)

さて、ここで話は荒木町へと移ります。国民的キャラクターを生み出したやなせたかし氏と、この町には、どのようなつながりがあったのでしょうか。

  • 客死(かくし)…故郷を離れた土地、とりわけ外国や旅先などで亡くなること。多くは病没を指すが、広く異郷での死を意味する語として用いられる。

  • 趣味人(しゅみじん)…趣味を生活の大切な一部として楽しみ、生きがいのひとつとしている人を指す。一般に、好奇心が旺盛で知識が豊富、かつ行動力を備えている場合が多い。趣味以外の現実世界が充実していないと、趣味人と認められない場合があるので、用法には留意が必要である。

  • ​​あんぱん…2025年度前期に放送されたNHK連続テレビ小説。主演は今田美桜。やなせたかし氏を北村匠海似のイケメンとして描く斬新な表現方法が話題となった。また、ドラマ後半で、四谷・荒木町時代の設定と思われる古民家やマンションが描かれたが、劇中で『荒木町』はおろか『四谷』にもひとことも触れず、日本中をヤキモチさせた(筆者談)。

  • 日本漫画家協会…漫画家の職能団体で、法的には公益社団法人。著作権に関する啓発や権利保護、文化振興事業、会員の福利厚生活動など、幅広い活動を行っている。現在協会が入居しているビルは、やなせたかし氏の寄贈によるものである。

やなせたかしの生涯

荒木町の時代

1947年(昭和22年)、28歳で上京したやなせ氏は、百貨店・三越宣伝部のグラフィックデザイナーとして勤務を始めました。同時期、中目黒のボロアパートで、のちに妻となる暢さんとの新生活をスタートさせます。三越のポスターや看板制作を手がける一方、漫画家として新聞や雑誌への投稿を続け、やがてその収入が三越の給料の三倍を超えるようになると、独立を志すようになったといいます。

1951年(昭和26年)、戦後の激しいインフレのさなか、生活は決して楽ではありませんでしたが、夫婦で力を合わせ、荒木町に四十二坪の土地を借りて二階建ての小さな家を建てました。庭の藤棚ではカナリアを飼い、アパートでは叶わなかった犬三匹と猫一匹との暮らしが始まります。​​​

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荒木町時代のやなせ夫妻(イメージ)
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愛犬と戯れる暢さん(イメージ)

その後、三越を退職し漫画家として独立。しかし代表作に恵まれるまでには時間を要し、作詞家、放送作家、舞台美術家、詩人、絵本作家など、多方面で活躍の場を広げていきました。やがて生活も安定し、暢さんは仕事を辞して専業主婦となりましたが、家事にとどまらず、創作活動に関わる雑務を一手に担い、柳瀬氏を献身的に支え続けました。

この荒木町の自宅兼アトリエでは、数多くの創作が行われました。童謡『手のひらを太陽に』(1961年発表)、ラジオドラマ『やさしいライオン』(1967年発表)、そしてキャラクター『アンパンマン』(1969年発表)も、この時代に生み出された作品と考えられます。​​​

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多彩な活動をするやなせ氏(イメージ)
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いぬとライオンの図(イメージ)

1970年(昭和45年)以降、やなせ氏は荒木町に隣接する新宿区片町に新築されたモダンなマンションへ居を移しました。そこには自宅のほか、アトリエや資料室、倉庫なども備えられ、創作の拠点として機能していたといいます。暢さんの趣味であった茶室も設けられていたとのことです。

妻・暢さんを亡くした後も柳瀬氏は片町に住み続け、新宿・四谷を創作活動の拠点としました。現在もなお、やなせスタジオは片町で活動を続けています。​​​

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モダンなマンション(イメージ)
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お茶をたのしむやなせ夫妻(イメージ)
  • 三越(みつこし)…1673年(延宝元年)、江戸・日本橋室町に創業した呉服店「越後屋」を源流とする、超がつく名門百貨店。近代百貨店の先駆けとして発展し、日本の流通史に大きな足跡を残してきた。2000年代以降の経営再編を経て、現在は株式会社三越伊勢丹ホールディングス傘下の百貨店ブランドとなっている。

  • 中目黒(なかめぐろ)…現在ではカフェや雑貨店が立ち並ぶ洗練された街として知られるが、昭和20年代当時はそのようなイメージとは異なっていた点に留意が必要である。中目黒が現在のように発展を遂げるのは、地下鉄日比谷線の開通(昭和39年)以降とされ、それ以前は目黒川沿いに町工場が点在する、いわば下町的な性格をもつ地域であった。

  • ​インフレ…インフレーション。物価が持続的に上昇し、それに伴って貨幣の購買力が相対的に低下する現象を指す。戦後日本では、復興期に急激な物価上昇が生じ、家計に大きな負担を与えた。近年みられるコスト上昇を主因とするインフレとは背景が異なるが、そのような経済状況下で資金を蓄え、住居を新築することは決して容易なことではなかったはずである。

  • ​​片町(かたまち)…新宿区四谷地区に属する町名。南は荒木町、北は市谷・牛込方面に接し、四谷と牛込の境界に位置する。都営新宿線・曙橋駅に近く、規模は大きくないものの、住宅と店舗が混在する活気ある地域である。

木町時代については、後年、やなせ氏がインタビューなどで語った証言が残されています。

やなせ氏と妻・暢さんは、ともに酒をあまり嗜まなかったといいます。荒木町へ移り住んだ当初は、この地が花街であったことを知らなかった節もあります。ただし、やなせ氏は迷路のように入り組んだ路地をたいそう気に入り、犬を連れてよく散歩していたと伝えられています。​​​

また、荒木町時代には、吉行淳之介氏や永六輔氏との交流もありました。

吉行淳之介氏は、やなせ氏が三越宣伝部の勤務時代に漫画を持ち込んでいた雑誌『モダン日本』の編集者だった時期があり、当時から面識がありました。ある日、荒木町で犬の散歩をしていたやなせ氏が、自転車に乗った編集者時代の吉行氏淳之介氏と偶然出会い、「よう、ヤナセくん」と声をかけられたという逸話を、後年に語っています。文壇のプレーボーイとして知られた吉行氏淳之介の、素顔が垣間見える微笑ましい一幕です。​

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吉行淳之介氏(イメージ)

永六輔氏との出会いもまた印象的でした。1960年(昭和35年)、荒木町・津の守坂にあったやなせ氏の自宅に、ジーンズ姿の若い男性が突然訪ねてきました。その若者は、面識のないやなせ氏に、「今度大阪でミュージカルを上演するので、舞台装置と美術を担当してほしい」と依頼しました。この若者こそ、当時28歳だった永六輔氏でした。当時のやなせ氏には舞台装置や舞台美術の経験がなかったため、当初は断ったものの、永氏の熱意に押されてミュージカル『見上げてごらん夜の星を』の制作に携わることになります。そして、この制作を通じて大阪で出会ったのが、のちにやなせ氏作詞の「手のひらを太陽に」を作曲することになる作曲家・いずみたく氏でした。​

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永六輔氏(イメージ)
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いずみたく氏(イメージ)

​このように、多くの出会いが荒木町で育まれました。もしそれらの縁が柳瀬氏の創作の礎となり、数々の作品へと結実したのだとすれば、荒木町にとってこれほど誇らしいことはありません。

戦後日本の大衆文化を彩った文化人たちが交わり、語らい、歩いた町――その記憶は、いまも石畳の路地に、静かに息づいているのかもしれません。​

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香美市立やなせたかし記念館(イメージ)
  • 吉行淳之介…(1924–1994)芥川賞受賞作家。戦後日本文学を代表する小説家の一人であり、エッセイストとしても高い評価を受けた。常に女性に彩られ多くの浮名を流し、それを小説やエッセイの題材としたことから、「文壇のプレーボーイ」と称されることもあった。父は作家・思想家の吉行エイスケ、母は美容師の吉行あぐり。妹に女優の吉行和子、詩人の吉行理恵をもち、家族全員が一流の文化人。母・あぐりは女性美容師の草分け的存在として知られ、1997年(平成9年)のNHK連続テレビ小説『あぐり』のモデルとなったほか、107歳の長寿でも話題となった。

  • ​永六輔…(1933–2016)放送作家、作詞家、エッセイスト。テレビ草創期の放送作家として活躍し、戦後日本の大衆文化を支えた人物の一人。作詞家としても知られ、坂本九の『上を向いて歩こう』やジェリー藤尾の『遠くへ行きたい』などのヒット曲を手がけた。ラジオ、テレビ、舞台、著作活動など多方面で精力的に活動し、長年にわたり出演した浅田飴のCMでも親しまれた。

  • ​​いずみたく…(1930–1992)作曲家・編曲家。ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』をはじめ、童謡「手のひらを太陽に」など、多くの名曲を手がけた。やなせたかしとの親交も深く、晩年には病を抱えながらもテレビアニメ『それいけ!アンパンマン』の音楽を担当し、その仕事が遺作となった。なお、孫にシンガーソングライターのラブリーサマーちゃんがいることでも知られており、筆者もファン。

​文化の交わる場所

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