アンパンマンのお店
四谷三丁目駅にほど近い外苑東通り沿いにある「やなせたかしの店 アンパンマンショップ」は、国民的キャラクター・アンパンマンのグッズを扱う専門店として、四谷界隈の人気スポットとなっています。

四谷三丁目のアンパンマンショップ(イメージ)
アンパンマンの生みの親であるやなせたかし氏は、新宿区の名誉区民として広く知られていますが、その足跡をたどると、実は荒木町にも深いゆかりをもつ人物であったことが見えてきます。本稿では、やなせたかし氏と荒木町との、あまり知られていない縁をひもといてみたいと思います。

やなせたかし氏。仕事場にて。(イメージ)
やなせたかし(柳瀬嵩)氏は、1919年(大正8年)、高知県香美郡在所村(現・香美市香北町)に生まれました。中国への留学経験をもち、編集者や新聞社特派員として活躍した多才な父と、香美郡の大地主の家に生まれた母のもと、東京府北豊島郡滝野川(現・東京都北区)で、比較的恵まれた幼少期を過ごします。
しかし、父が中国・アモイ(厦門)で客死*したことをきっかけに、父の兄で医師であった高知県後免町の伯父のもとで育てられることになりました。

たかしと父・清さん、母・登喜子さん(イメージ)
伯父の家には、すでにその養子となっていた実弟・千尋がおり、伯父夫妻は二人を分け隔てなく育てました。それでも、たかし少年は、自身が養子ではないという立場への遠慮と、血のつながった弟への深い愛情、そして拭いきれない劣等感とが入り混じった複雑な心情を抱えながら、多感な青春時代を過ごします。

たかし少年が育った高知・御免町(イメージ)
もっとも、伯父の、自由放任ともいえる教育方針と、文化的な刺激に満ちた家庭環境は、やなせ氏の人格形成や感性の礎となりました。戦前、東京から遠く離れた土佐の町で町医者を営みながらも、伯父は俳人としての顔も持ち、洋書を含む多くの書籍やレコードを蒐集し、最新の雑誌を東京から取り寄せる一方、サイドカー付きのオートバイを乗り回すなど、常に新しい文化へ目を向ける、当時としては類を見ないほどモダンな趣味人であったといいます。
幼少期から絵に強い関心を抱いていたたかし少年は、伯父の勧めもあり、高知を離れて上京し、下宿生活を送りながら、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)へと進学します。当時の東京高等工芸学校は、山手線田町駅のほど近くに位置し、大正デモクラシーの気風を色濃く残す自由闊達な校風で知られる学校でした。
たかし少年は、そうした環境のもと、日に一度は銀座へ足を運び、盛り場を歩き、映画や演劇、展覧会に親しみ、喫茶店では学友と芸術論を交わしながら、自らの感性と精神を育んでいきました。

在りし日の東京高等工芸学校本館(イメージ)
しかし、卒業を間近に控えた頃、たかし少年にとって「もう一人の父」ともいえる存在であった伯父が急逝します。養子でもない自分を東京の学校へ送り出し、教養と自由な視野を授けてくれた伯父の死は、就職を通じてようやく恩返しができると考えていたたかし少年に、深い悲しみをもたらしました。
それでも、弟・千尋の「兄貴は好きに生きていいよ」という言葉に背中を押され、卒業後はデザイナーとして東京の一般企業の宣伝部に就職し、社会人としての一歩を踏み出します。

新入社員時代のやなせ青年(イメージ)
一方で、時代は静かに、しかし確実に別の方向へと動き始めていました。アジア全体に影を落としていた日本の国粋主義と軍国化の波――軍靴のひびきは、たかし青年の足元へと忍び寄っていたのです。
大正デモクラシー*の只中に生まれ、放任主義のもとで育ち、自由主義を校是とする学校で学んできたたかし青年でしたが、就職からわずか一年後、徴兵を受けて陸軍に入営することになります。
配属先は、縁もゆかりもない福岡・小倉(現・北九州市)。さらにその任期中、日中戦争*の拡大を経て大東亜戦争へと突入したことにより兵役期間は延長され、1944年(昭和19年)夏には、日中戦争末期の福州(現・福建省)への出征を命じられることになりました。

軍馬に跨るやなせ青年(イメージ)
暗号班に所属する下士官であったたかし青年は、幸いにも直接戦闘に加わることはありませんでした。しかし、日中戦争下の中国において、現地ゲリラの襲撃にさらされながら、福州から上海へ至る千キロ近い過酷な陸路移動を経験します。その道中で、常に死と隣り合わせであることや、従軍の理不尽さ、極限の飢餓といった、苛烈な戦争の現実を身をもって知ることになりました。
さらに帰国後、彼を待っていたのは、海軍士官としてバシー海峡*に出征していた弟・千尋の戦死という、あまりにも重い知らせでした。
こうした戦争体験や深い喪失感、そして終戦後に訪れた急激な社会の変化への違和感は、やなせ氏の善悪観や戦争観に決定的な影響を与えました。そこで育まれた思索は、のちに生み出される作品の主題やキャラクター造形にも、色濃く反映されていくことになります。

日中戦争において行進する日本兵(イメージ)
戦後、やなせ氏は高知で復員*し、文化的な仕事を求めて高知新聞社に入社しました。しかし、デザインの仕事への関心と漫画家への志を捨てきれず、1947年(昭和22年)、再び上京。ほどなく同郷の小松暢(こまつ・のぶ)と結婚しました。
以後は漫画家として活動する一方で、グラフィックデザイナー、作詞家、放送作家、舞台美術家、詩人、絵本作家など、次々と表現の領域を広げていきます。こうした多方面にわたる試みと模索は、やがて後年の代表作へと結実する、豊かな創作の土壌を形づくっていくことになります。

やなせ氏の妻・小松暢氏(イメージ)

壮年期のやなせたかし氏(イメージ)
1969年(昭和44年)、やなせ氏は、苦しみや空腹の前では無力になりがちな正義を問い直し、困っている人に寄り添うことを何よりも大切にするキャラクターとして、アンパンマンを発表しました。当初は大きな注目を集めるには至りませんでしたが、発表から二十年近い歳月を経た1988年(昭和63年)、テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』として放映されると、予想を上回る支持と高い視聴率を獲得し、瞬く間に国民的な人気を博します。その後は長寿番組として定着し、世代を超えて愛され続ける存在となっています。

空飛ぶアンパン(イメージ)
1993年(平成5年)、妻・暢に先立たれたあと、やなせ氏は独身を貫きました。しかしその後も創作への情熱が衰えることはなく、エッセイストやタレントとしても幅広く活躍します。晩年には日本漫画家協会の理事長を務め、後進の育成にも力を注ぎました。また、その功績と温かな人柄から多くの敬意を集め、新宿区名誉区民としても広く親しまれました。
そして2013年(平成25年)、94歳で天寿を全うするまで、創作を通して人々に寄り添い、子どもたちに笑顔と希望を届け続けました。

まだまだ元気なやなせ氏(イメージ)
2025年(令和7年)には、NHK連続テレビ小説として、やなせ氏とその妻・小松暢をモデルとした『あんぱん*』が放送されました。
数々の困難を乗り越え、昭和の時代を生き抜いた末に大器晩成を遂げた二人の歩みが丁寧に描かれ、その人生にあらためて光が当てられたことで、再び注目を集めています。

朝ドラ主演に意気込むふたり(イメージ)
さて、ここで話は荒木町へと移ります。国民的キャラクターを生み出したやなせたかし氏と、この町には、どのようなつながりがあったのでしょうか。

四谷・津の守坂通り。昭和45年頃までは、左手にやなせ氏の自宅があった。(イメージ)
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客死(かくし)…故郷を離れた土地、とりわけ外国や旅先などで亡くなること。多くは病没を指すが、広く異郷での死を意味する語として用いられる。
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大正デモクラシー…大正期(1910~20年代)に日本で広がった、民主主義的な社会運動および思想的風潮。都市化と教育の普及を背景に、政党政治の発展や普通選挙の実現を求める動きが高まり、言論の自由や社会改革への関心が広がった。あわせて新聞・雑誌による世論形成が進み、労働運動や女性解放思想など、多様な社会運動が展開された。
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日中戦争…1937年の盧溝橋事件を契機に本格化した、日本と中国(中華民国)との間の長期戦争。日本は中国大陸での権益確保と勢力圏拡大を目的に短期決戦を想定して開戦したが、戦線は華北から中部・南部へと拡大し、戦争は泥沼化した。総力戦体制のもとで日本社会も深く戦時化し、1941年の太平洋戦争開戦後も継続、1945年の敗戦によって終結した。
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バシー海峡…台湾とフィリピンの間に位置する海峡。太平洋と南シナ海を結ぶ交通の要衝であり、太平洋戦争中はアメリカ海軍の潜水艦作戦が活発に行われた海域として知られる。日本側の輸送船が多数撃沈されたことから、「輸送船の墓場」とも呼ばれた。
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復員(ふくいん)…戦争終了に伴い、軍属を解職して故郷へ帰還させること。または、軍務を解かれた兵が帰郷すること。
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あんぱん…2025年度前期に放送されたNHK連続テレビ小説。主演は今田美桜。やなせたかし氏を北村匠海似のイケメンとして描いた斬新な演出が話題を呼んだ。物語後半では、四谷・荒木町時代を思わせる古民家やマンションの描写も登場したが、劇中では「荒木町」はおろか「四谷」という地名にも一切触れられず、日本中(とくに荒木町界隈)をやきもきさせたことは、記しておきたい(筆者談)。
やなせたかしの生涯
荒木町の時代
1947年(昭和22年)、28歳のやなせ氏は、のちに妻となる暢さんを追って上京し、百貨店・三越*宣伝部のグラフィックデザイナーとして勤務を始めました。ほどなくして、中目黒*のボロアパートで、暢さんとの新生活をスタートさせます。三越のポスターや看板制作を手がける一方で、やなせ氏は漫画家を志し、新聞や雑誌への投稿を続けていました。当時は東京での生活基盤もまだ確立されておらず、安定した収入を得るために会社勤めを続けていましたが、やがて漫画の収入が三越での給料の三倍を超えるようになると、独立を志すようになったと伝えられています。

愛犬を抱く暢さん(イメージ)
1951年(昭和26年)、戦後の激しいインフレのさなかで生活は決して楽ではありませんでしたが、夫婦共働きで力を合わせ、荒木町十五番地に四十二坪の土地を借り、木造二階建ての小さな家を建てました。建設費用は、当時の金額でおよそ三十万円ほど*だったといいます。さらに、仕事用のアトリエを構えるため、当時としてはまだ珍しかった電話も引きました。庭の藤棚ではローラーカナリアを飼い、アパートでは叶わなかった犬三匹と猫一匹との生活が、ここから始まりました。

荒木町時代のやなせ夫妻(イメージ)
その後、やなせ氏は三越を退職し、漫画家として独立の道を歩み始めます。
独立直後は仕事も多くはなく、荒木町の自宅の縁側に寝転び、日向ぼっこをしながら本を読んで過ごすことも少なくなかったといいます。
漫画家としては、なかなか代表作に恵まれなかったものの、作詞や放送、舞台美術など多方面で次第に力を発揮し、活動の幅を広げていきました。頼まれれば応え、求められれば形にする。その誠実な姿勢から、いつしか周囲からは「困ったときのやなせさん」と呼ばれる存在になっていったといいます。
やがて生活が安定すると、暢さんは仕事を辞めて家庭に入りました。その後は家事にとどまらず、原稿の整理や来客の応対など、創作にまつわる雑務を一手に引き受け、やなせ氏の歩みを支え続けました。

マルチタレント時代のやなせ氏。テレビ出演もはたし、お茶の間の人気者になる。(イメージ)
荒木町の自宅兼アトリエは、そうした夫婦の時間が幾重にも積み重ねられた場所でした。童謡『手のひらを太陽に』(1961年発表)、ラジオドラマ『やさしいライオン』(1967年発表)、そして後年、多くの人々の心に寄り添うことになる『アンパンマン』(1969年発表)も、この時代に生み出された作品です。
荒木町という街の一角で、やがて時代を超えて語り継がれる作品が、静かに芽吹いていったのです。

ライオンの子どもと母犬の図(イメージ)
1970年(昭和45年)以降、やなせ氏は荒木町に隣接する新宿区片町*に新築されたモダンなマンションへ居を移しました。自宅に加え、アトリエや資料室、倉庫を備えたこの住まいは、創作の拠点として整えられ、暢さんの趣味であった茶室も設けられていたといいます。
しかし、住まいが変わった後も、やなせ氏にとって四谷の街は変わらぬ生活圏であり、創作と思索の拠り所であり続けました。

自宅の茶室で談笑するやなせ夫妻(イメージ)
妻・暢さんを亡くした後も、やなせ氏は片町に住み続け、新宿・四谷界隈を日々の暮らしと創作活動の拠点としました。現在もなお、やなせスタジオは片町に拠点を置き、この街との縁を静かに受け継いでいます。

『あんぱん』に登場するモダンなマンション(イメージ)
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三越(みつこし)…1673年(延宝元年)、江戸・日本橋室町に創業した呉服店「越後屋」を源流とする、超がつく名門百貨店。近代百貨店の先駆けとして発展し、日本の流通史に大きな足跡を残してきた。2000年代以降の経営再編を経て、現在は株式会社三越伊勢丹ホールディングス傘下の百貨店ブランドとなっている。
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中目黒(なかめぐろ)…現在ではカフェや雑貨店が立ち並ぶ洗練された街として知られるが、昭和20年代当時はそのようなイメージとは異なっていた点に留意が必要である。中目黒が現在のように発展を遂げるのは、地下鉄日比谷線の開通(昭和39年)以降とされ、それ以前は目黒川沿いに町工場が点在する、いわば下町的な性格をもつ地域であった。
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当時の金額でおよそ三十万円ほど…1950年代初頭の大卒初任給は約5,000円前後とされ、現在の水準のおおよそ40分の1にあたる。これを基準に換算すると、三十万円は現在の価値で約1,200万円程度に相当すると考えられ、当時としては決して小さくない金額であったことが分かる。
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片町(かたまち)…新宿区四谷地区に属する町名。南は荒木町、北は市谷・牛込方面に接し、四谷と牛込の境界に位置する。都営新宿線・曙橋駅に近く、町域は大きくないものの、住宅と店舗が混在する活気ある地域である。
荒木町時代については、後年、やなせ氏が書籍やインタビューなどで語った回想がいくつも残されています。
やなせ氏と妻・暢さんは、ともに酒をあまり嗜まなかったといい、荒木町へ移り住んだ当初は、この地が花街であることを知らなかった節もあります。しかし、迷路のように入り組んだ荒木町の路地をたいそう気に入り、犬を連れては、日々この界隈を散歩していたそうです。

荒木町の路地を散歩するやなせ氏(イメージ)
また、やなせ氏は荒木町の家について、「知らない人が突然やって来て、やったことのない仕事ばかり頼んでいく、不思議な場所だった」と振り返っています。そうした経験を重ねた荒木町を、やなせ氏はのちに「人生の出発点」と表現しました。この街で過ごした時間が、やなせ氏にとって特別な意味をもっていたことが、そこからもうかがえます。

荒木町の家の前で、犬に跨る暢さん(イメージ)
さてここで、やなせ氏がこの時期に荒木町で結んだ交友について、いくつかのエピソードをご紹介しましょう。
戦後日本文学を代表する作家・吉行淳之介*は、やなせ氏が三越宣伝部に勤務していた頃、漫画を持ち込んでいた雑誌『モダン日本』の編集者を務めており、両者はその頃から面識がありました。
荒木町で犬の散歩をしていたやなせ氏が、自転車に乗った編集者時代の吉行氏と出会い、「おー、ヤナセくん」と気さくに声をかけられたという逸話が、やなせ氏自身によって語られています。文壇のプレーボーイとして知られる吉行氏の、飾らない素顔が垣間見える一幕です。
吉行淳之介は、その後、『驟雨』や『原色の街』をはじめ、花街や色街を背景に、人間の欲望や男女の機微を繊細に描いた作品を数多く残しました。そうした吉行氏が、当時花街として栄えていた荒木町を生活と交友の場としていたことは、その作品世界にも通じるものがあり、どこか象徴的にも思われます。

吉行淳之介氏(イメージ)
また、1958年(昭和33年)8月のある日、自宅兼アトリエの電話が鳴り、何気なく受話器を取ると、若い女性の声がこう切り出しました。
「もしもし、まり子です。お願いしたいことがあるの。車を回すから、うちへ来てくれへんか」
電話の主は、当時売り出し中だった歌手・女優の宮城まり子*でした。招かれて宮城女史の自宅を訪れたやなせ氏は、これまで経験のなかった歌謡ショー(リサイタル)の構成を依頼され、思わず戸惑います。
ところが、人気女優がふるまってくれた、かき玉子に塩鮭、味噌汁、たくあんという素朴な食事に「ふらっと」ときてしまい、結局その依頼を引き受けたのだといいます。
この出来事をきっかけに、やなせ氏は漫画家という枠を越え、クリエイターとして幅広い分野で才能を発揮し始めます。やなせ氏は、自身には漫画の師はいないとしながらも、宮城女史を、クリエイターとしての師ともいうべき存在として語っています。
その後、宮城女史は吉行淳之介氏と公然のパートナーとなります。やなせ氏を含めた三人が、荒木町という小さな町で親しく交流していたことを思うと、その時代の空気や語らいの情景に、思いを馳せずにはいられません。

宮城まり子女史(イメージ)
1959年(昭和34年)には、荒木町に近接する新宿区河田町に フジテレビのスタジオが建設されました。自宅がほど近かったこともあり、やなせ氏がフジテレビ通り(現・あけぼのばし商店街)の喫茶店で、番組のコンテや台本を書いている姿が、しばしば見かけられました。その姿は、周囲の誰も漫画家だとは思わず、テレビ局のスタッフか放送作家にしか見えなかったといわれています。

フジテレビの城下町であった時代のフジテレビ通り。現在はあけぼのばし商店街として新たな発展を見せている。(イメージ)
永六輔*氏との出会いも、また印象的です。
1960年(昭和35年)、荒木町・津の守坂にあったやなせ氏の自宅を、すりきれたジーンズに短髪といういでたちの若い男性が、突然訪ねてきました。その人物は、面識のないやなせ氏に向かって、「今度、大阪でミュージカルを上演するので、舞台装置と美術を担当してほしい」と持ちかけます。これが、当時28歳だった永六輔氏でした。
当時のやなせ氏には舞台装置や舞台美術の経験がなく、はじめは依頼を断りましたが、「永ちゃん(と、やなせ氏は呼んでいた)」の熱意に心を動かされ、ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』の制作に携わることになります。そして、この作品づくりを通じて大阪で出会ったのが、その後、数々の作品をともに手がけることになる作曲家・いずみたく*氏でした。

永六輔氏(イメージ)
やなせ氏は、「詩の言葉を大切にして作曲してくれ るから、たくちゃんの曲が好きなんだ」と語り、いずみ氏に深い信頼を寄せていました。一方のいずみ氏も、商業的な成功よりも「本当に良い歌をつくる」ことを大切にするやなせ氏の姿勢に共感し、その創作に厚い敬意を抱いていたといいます。
互いの感性を認め合った二人は、その後もたびたびコンビを組み、「手のひらを太陽に」をはじめ、多くの名作を世に送り出していくことになります。

いずみたく氏(イメージ)
やなせ氏は、1964年(昭和39年)には、NHK『まんが学校』に先生役としてレギュラー出演することになります。このときも、NHKの若手ディレクターであった丸谷賢典氏が、面識のないまま荒木町の自宅を訪ね、出演を依頼したといいます。この番組への出演をきっかけに、やなせ氏の名は広く一般に知られるようになり、落語家・立川談志*との交流も生まれました。
漫画家という枠にとどまらず、幅広い分野で活躍したやなせ氏は、「漫画は紙に描くだけのものではない」という考えのもと、皿やコップ、商品のデザインなどへも表現の場を広げていきました。この柔軟な発想は立川談志にも強い印象を与えたとされ、「寄席だけが落語ではない」という談志の芸論にも通じるものとして語り継がれています。

若き日の立川談志氏(イメージ)
また、やなせ氏の後年の回想によると、1967年(昭和42年)頃、荒木町の自宅兼アトリエで仕事をしていたところ、突然、手塚治虫*氏から電話がかかってきて、アニメ映画『千夜一夜物語』の美術とキャラクターデザインを担当してほしいと依頼されたそうです。アニメーション作品の美術に携わった経験のなかったやなせ氏にとって、それは思いもよらない話でした。しかも、当時人気の絶頂にあった、日本を代表する漫画家であり、日本アニメーション界の草創期を築いた手塚氏本人からの突然の電話だったため、やなせ氏は最初、いたずら電話だと思い、本気にはしなかったといいます。
しかし、『千夜一夜物語』でのやなせ氏の仕事ぶりを高く評価した手塚氏は、その報酬とお礼を兼ねて私費を投じ、やなせ氏が自ら制作を手がけるアニメ映画『やさしいライオン』の製作を実現させました。
こうして完成した『やさしいライオン』は、毎日映画コンクール大藤信郎賞、厚生大臣賞、最優秀動画賞など数々の賞を受賞し、高い評価を得ました。この作品によって、やなせ氏は映像作家としての評価をさらに高めることになります。

漫画の神様・手塚治虫氏(イメージ)
このように、やなせ氏は荒木町で多くの人々と出会い、その縁を育みました。そして、その一つひとつの出会いが、やなせ氏自身の言葉どおり、創作に少なからず影響を与え、作品世界を形づくる一助となったのだとすれば、荒木町にとってこれほど誇らしいことはありません。
戦後日本を代表する漫画家、作曲家、演出家、落語家、放送人たちがこの町で語り合い、新たな創作の芽を育んでいった――そう考えると、荒木町は単なる花街ではなく、一つの文化が息づく創造の舞台でもあったのでしょう。
その記憶は、いまも石畳の路地に、静かに息づいているのかもしれません。

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吉行淳之介…(1924–1994)芥川賞受賞作家。戦後日本文学を代表する小説家の一人であり、エッセイストとしても高い評価を受けた。常に女性に彩られ多くの浮名を流し、それを小説やエッセイの題材としたことから、「文壇のプレーボーイ」と称されることもあった。父は作家・思想家の吉行エイスケ、母は美容師の吉行あぐり。妹に女優の吉行和子、詩人の吉行理恵をもち、家族全員が一流の文化人。母・あぐりは女性美容師の草分け的存在として知られ、1997年(平成9年)のNHK連続テレビ小説『あぐり』のモデルとなったほか、107歳の長寿でも話題となった。
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宮城まり子…(1927–2020)昭和を代表する女優・歌手。1950年代に映画・舞台・テレビで活躍し、清楚で品のある佇まいから幅広い支持を集めた。また、障害のある子どもの救済・支援を行う日本初の児童養護施設「ねむの木学園」を設立。福祉・教育分野に大きな足跡を残した。吉行淳之介と交際し、彼の死まで事実婚の関係であった。
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永六輔…(1933–2016)放送作家、作詞家、エッセイスト。テレビ草創期の放送作家として活躍し、戦後日本の大衆文化を支えた人物の一人。作詞家としても知られ、坂本九の『上を向いて歩こう』やジェリー藤尾の『遠くへ行きたい』などのヒット曲を手がけた。ラジオ、テレビ、舞台、著作活動など多方面で精力的に活動し、長年にわたり出演した浅田飴のCMでも親しまれた。
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いずみたく…(1930–1992)作曲家・編曲家。ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』をはじめ、童謡「手のひらを太陽に」など、多くの名曲を手がけた。やなせたかしとの親交も深く、晩年には病を抱えながらもテレビアニメ『それいけ!アンパンマン』の音楽を担当し、その仕事が遺作となった。なお、孫にシンガーソングライターのラブリーサマーちゃんがいることでも知られており、筆者もファン。
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立川談志…(1936–2011)昭和・平成を代表する落語家。本名・松岡克由。五代目柳家小さんに入門し、1963年(昭和38年)に真打へ昇進して立川談志を襲名した。古典落語を独自の解釈で再構築し、「芝浜」などの名演で知られる。テレビ番組『笑点』の企画に携わり、初代司会者を務めたほか、参議院議員としても活動。1983年(昭和58年)に落語協会を脱退し、落語立川流を創設した。「落語とは人間の業の肯定である」と説き、卓越した話芸と独自の落語論、歯に衣着せぬ言動から、戦後落語界を代表する異才と評される。
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手塚治虫…(1928–1989)戦後日本を代表する漫画家・アニメーション作家。本名・手塚治。『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『火の鳥』『ブラック・ジャック』など数多くの名作を生み出し、「漫画の神様」と称される。1961年(昭和36年)には虫プロダクションを設立し、日本初の本格的なテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作するなど、日本アニメーション界の礎を築いた。漫画・アニメーションの両分野に多大な影響を与え、現在も国内外のクリエイターから深く敬愛されている。
文化の交わる場所
結にかえて
四谷三丁目のアンパンマンショップは、やなせ氏が自ら構想し、手がけた場所です。いまも変わらず、多くの笑顔が集う、子どもたちの拠り所となっています。
最後に、やなせ氏の著作『アンパンマンの遺書』より、アンパンマンショップについて綴られた一節をご紹介し、本稿の結びとしたいと思います。

アンパンマンショップにおいて子どもたちに囲まれるやなせ氏。生前は、毎日のように店舗に顔を出し、子どもたちの笑顔を眺めていたという。(イメージ)
"自分の住んでいる新宿にアンパンマン・ショップをつくった。もうお金は不必要だから、大金を投資しても惜しいとは思わなかった。"
"アンパンマン・ショップは歩いて五分のところにオープンした。
毎日子供達が来て遊んでいる。それを見ているのは楽しい。このさびしげな人生がいくらか明るくなる。
アンパンマンとめぐり逢えて本当によかった。これが幸福な晩年というものかもしれない。"
"ぼくら夫婦には子供がなかった。アンパンマンがぼくらの子供だ。"

幸せそうに笑うやなせ氏(イメージ)
やなせ氏の志は、これからも四谷の地で、確かに生き続けていく――そのように感じずにはいられません。
本コラムの執筆にあたり、下記の書籍・文献を参考にさせていただきました。
・やなせたかし『アンパンマンの遺書』岩波書店、1995年
・やなせたかし『人生なんて夢だけど』フレーベル館、2005年
・やなせたかし『絶望の隣は希望です!』小学館、2011年
・梯久美子『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』文藝春秋、2025年
・青山誠『やなせたかし 子どもたちを魅了する永遠のヒーローの生みの親』KADOKAWA、2025年
・「追憶の風景 荒木町(やなせたかし)」『朝日新聞』夕刊、2011年3月8日
改訂履歴
2026年2月 初出
2026年7月 一部加筆・修正
