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荒木町コラム 須賀神社と祭礼①

四谷の興りと須賀神社

谷の総鎮守・須賀神社の縁起や例大祭の起こりをたどっていると、いつの間にか江戸の町の成り立ちへと思いが及びます。四谷の歴史をひもとくと、江戸の都市づくりや町人の暮らしが、次々と顔をのぞかせてくるのです。
この面白さを一度に語り尽くすことはとてもできそうにありませんので、今回は筆を分け、数編のコラムとしてまとめてみることにしました。

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つたない筆ではありますが、四谷十八ヵ町が紡いできた歴史や、今の四谷へと受け継がれてきた伝統の姿を、少しでもお楽しみいただければ幸いです。

なお、本文には聞き慣れない言葉も出てまいりますので、ところどころに注釈を付しております。こちらも併せてお目通しいただければと存じます。

江戸の三つの伝馬町

をさかのぼることおよそ四百年前、天正18年(1590年)のこと。
豊臣秀吉の命により関東へ移封された徳川家康は江戸に入府すると、この地を統治の拠点として整えるため、道路や橋、宿場、輸送の拠点などの都市基盤を計画的に整備していきました。

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江戸への移封という秀吉の無茶振りを受け入れざるを得ない家康(イメージ)

その一環として、日本橋を起点とする街道網が整えられ、各街道には宿場*が置かれました。そこでは人馬を常備し、公用の際にこれを提供する伝馬役(てんまやく)が制度として定められます。また、人馬が不足する場合には、周辺の村々が助郷(すけごう)としてこれを補う仕組みも整えられました。こうして、公用輸送の体系である「伝馬制度」の基盤が形づくられていきます。

伝馬役は、将軍や幕府の公用書状の輸送、諸大名の参勤交代の補助、さらには軍事や緊急時の物資輸送などを担う、きわめて重要な役務でした。

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人馬継立の図(歌川広重 東海道五十三次「藤枝」からのイメージ)

幕府は、この伝馬役を担わせるため、江戸近郊の古村に住んでいた人々を日本橋周辺に移住させるなどして集住させました。慶長年間(1596~1615年)には、日本橋北側に、日光・奥州街道や中山道の江戸口(江戸側の出入口)にあたる輸送を担った「大伝馬町」と、江戸府内の伝馬御用を務めた「小伝馬町」が成立します。
一方、日本橋南側
(現・中央区京橋一丁目~三丁目付近)には、東海道の江戸口にあたる輸送を担った「南伝馬町」が置かれ、これら三町は総称して「三伝馬町」と呼ばれました。
これら三伝馬町は、街道に設けられた宿駅*
(宿場)とは異なり、日本橋を起点とする公用輸送を一手に担い、各街道へと人馬を振り分ける役割を果たした、幕府直結の伝馬拠点でした。

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大伝馬町の賑わい。木綿問屋街として栄えた(江戸名所図会)

町人身分でありながら幕府直結の任務を担い、疫病や事故とも隣り合わせの過酷な職務に従事していた三伝馬町の町人たちは、疫病除けの神として信仰されていた牛頭天王*(ごずてんのう)を篤く崇敬し、神田明神の境内にあった牛頭天王社を産土神*(うぶすながみ)として仰ぎました。

興味深いことに、神田明神の境内には三つの天王社*があり、三伝馬町がそれぞれ一社ずつを町の守り神として祀っていました。すなわち、南伝馬町は一ノ宮を、大伝馬町は二ノ宮を、小伝馬町は三ノ宮を持ち社としていました。なお、三ノ宮はのちに小舟町へと持ち分が移り、祀りの担い手も改められました。

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神田明神社。本殿の下手に三天王社が描かれている(江戸名所図会)

また、神田明神の境内に天王社がいつ頃から存在していたのかは定かではありませんが、一説には、大宝年間(701年~704年)の創建と伝えられる、須佐之男命*(スサノオ)を地主神とする古社にその由来を求める向きもあります。こうした在地の古い天王信仰*が三伝馬町の人々の信仰と結びつき、やがて江戸の町人社会へと広がっていったものと考えられます。

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神田明神の牛頭天王社(イメージ)

慶長18年(1613年)、日本橋・伝馬町の町人たちは、天王社の神輿を担いで江戸城大手門へ向かい、将軍家に祭礼を奉納したと伝えられています。これが史料によって確認できる最初の「江戸の祭」であり、江戸における天王祭*の始まりです。

三伝馬町が持ち回りで執り行った天王祭は、毎年六月初旬から中旬にかけて行われる長丁場の祭で、江戸の市中を大いに賑わせ、江戸の町人たちに親しまれる夏の風物詩として定着していきました。

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南伝馬町を渡御する天王社の荒神輿(江戸名所図会)

このように三伝馬町の人々によって支えられた天王信仰は、江戸の町々へと広がり、都市の守り神として深く根づいていきました。その流れは、やがて江戸の西端にあたる四谷にも及ぶことになります。

ではここから、話を四谷へ移してみることにしましょう。

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牛頭天王祭礼の賑わい(絵本江戸土産からのイメージ)
  • ​宿場/宿駅(しゅくば/しゅくえき)…街道に設けられた人馬継立の拠点で、公用の輸送や旅人の宿泊・休息を担った町をいう。幕府は伝馬役・助郷によって人馬の供出を制度化し、五街道をはじめとする交通網を支えた。

  • 牛頭天王(ごずてんのう)…疫病を司り、またそれを鎮める神とされる神仏習合の神。京都祇園社(現・八坂神社)の祭神として広まり、天王信仰の中心となった。須佐之男命と同一視され、祀られることが多い。

  • ​産土神(うぶすながみ)…その人が生まれた土地に結びつく守護神。古くからその地に鎮座し、土地とそこに暮らす人々を守る神とされる。似た概念に氏神があるが、こちらはもともと血縁集団(氏族)の守護神を指した。やがて時代が下るにつれて、氏神も地域の守り神へと性格を変え、産土神と重なるものとして理解されるようになった。

  • ​三つの天王社…江戸初期には、須佐之男命・五男三女(八王子)・奇稲田姫(くしなだひめ)という三柱を分担して祀っていたとされる。牛頭天王信仰の広がりとともに次第に一体的な信仰対象として理解されるようになり、三社とも須佐之男命を主祭神として祀るようになったと考えられる。

  • 天王信仰(てんのうしんこう)…​​牛頭天王を疫病を鎮める神として祀る信仰。京都祇園社を中心に中世以降広まり、夏の天王祭などを通じて都市や村落の災厄除け・疫病退散を祈願する民間信仰として各地に広がった。

  • 須佐之男命(スサノオノミコト)…日本神話に登場する神で、天照大神の弟神。出雲で八岐大蛇を退治したことで知られ、荒ぶる一面とともに災厄を鎮める力をもつ神とされる。中世以降は牛頭天王と習合して祇園信仰・天王信仰の中心的な神格となり、疫病除けの神として広く信仰された。​

  • 天王祭(てんのうまつり)…牛頭天王を祀る祭礼。疫病退散や厄除けを願う夏の祭りとして各地で行われ、神輿の渡御によって町を巡り、穢れや災厄を祓う鎮疫祭の性格を持つ。京都・祇園社の祭礼である祇園祭に由来し、各地では祇園祭とも呼ばれる。

代は下り、徳川家康の没後、三代将軍・徳川家光の治世の頃の話になります。家康の構想どおり、江戸の街は幕府の統治拠点として本格的に機能しはじめ、市街地も拡大を続けていきました。

こうした発展のなかで幕府は、江戸を「天下の府」として完成させるとともに、諸大名統制の意図のもと、天下普請*として城郭や城下町を取り巻く大規模な工事を進めていきます。

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​江戸の普請のイメージ。冨嶽三十六景 本所立川(葛飾北斎)より

こうした城郭整備の影響は、江戸の外縁部にあった四谷にも及びました。

寛永11年(1634年)、江戸城外堀の普請に伴い、麹町一帯(現・千代田区)をはじめ、赤坂(現・港区など外堀予定地にあった寺社が四谷へ移されています。

そうした中、赤坂・清水谷(現在の千代田区紀尾井町周辺)にあった一ツ木村の鎮守である稲荷社が、関係する寺院*とともに四谷へ遷座されました。これが現在の須賀神社の起源とされています。

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四谷の寺社の多くは、この頃移転した寺社を縁起とする(江戸名所図会)

このころの四谷は、旗本*の邸宅や同心*などの小給御家人*の屋敷地に加え、移転してきた寺社を中心とする寺町が点在する地域で、町人地はまだほとんど見られませんでした。

これは、江戸初期の四谷が、万が一江戸城に変事があった際に、甲府方面へ将軍が退避する経路として想定されていたためと伝えられています。街道沿いには防御の拠点として寺社が置かれ、その周囲に武家屋敷が配されるなど、幕府の意図に沿った町割りがなされていたものと考えられます。

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現在の江戸城外堀(市谷見附付近)。寛永の天下普請により開削された(イメージ)

江戸城外堀の普請はその後も続けられ、寛永13年(1636年)には、惣構え(そうがまえ)*の仕上げとなる大規模な天下普請が行われました。牛込見附(現・飯田橋駅周辺)から赤坂見附に至る外堀の開削や石垣の築造、見附(番所)の設置が進められ、江戸城外曲輪*の防衛線が整えられます。

四谷付近の外堀は、信州上田藩の真田信之(真田幸村の兄)が開削を担当したことから、真田濠(さなだぼり)と呼ばれました。ここには枡形虎口(ますがたこぐち)*を備えた四ツ谷御門が設けられ、城内への通行を監視する番所として、四ツ谷見附が置かれました。

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江戸時代の四谷御門(イメージ)

この大普請以前、麹町台地と四谷台地はもともと一体の地形をなし、連続した市街として整備されつつありましたが、外堀の開削と四ツ谷見附の設置によって、両者は明確に分断されました。これにより四谷は、武家町として発展していく番町・麹町と袂を分かち、外曲輪の外縁に位置する四ツ谷御門の門前に広がる、交通の要衝としての性格を帯びていくことになります。

また、この普請に伴い、麹町の町屋の一部が外堀の外側へ移され、外堀をはさんで四ツ谷見附の向かい側、現在の四谷一丁目付近に、麹町十一丁目から十三丁目が形成されました*。これが四谷における最初の町人地と伝えられ、その後発展していく四谷の町人地の先駆けとなります。

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在りし日の真田濠。現在は埋め立てられ上智大学グラウンドとなっている(イメージ)
  • 天下普請(てんかぶしん)…江戸幕府が全国の大名に命じて行わせた大規模な土木工事。江戸城の築城や城下町整備、河川工事などがあり、大名に労力と費用を負担させることで幕府の権威維持と大名統制の役割も持った。

  • ​社に関係する寺院…神社に付属し、祭祀や管理を担った寺院を別当寺(べっとうじ)という。神仏習合のもとで僧が神事に関与する体制であったが、明治の神仏分離により廃止された。四谷牛頭天王社の別当寺は、稲荷山福田寺宝蔵院であり、赤坂からの遷座の際には共に移された。

  • 旗本/同心/御家人…旗本・御家人はいずれも将軍直臣の武士で、旗本は将軍に拝謁できる家格を持ち、御家人はそれに次ぐ層である。同心は御家人身分に属する下級役人で、与力(同じく御家人身分の中級役人)の指揮のもと、警察・行政の実務を担った。

  • ​惣構え(そうがまえ)…城下町全体を囲む外郭の防御線をいう。中国の城郭や中世ヨーロッパの都市のように、都市全域を堀や城壁で囲う点に特徴がある。総構えともいう。江戸城では外堀や土塁・門を巡らせ、おおむね現在の千代田区・中央区・港区北部に及ぶ範囲を含み、軍事的防衛と都市統制を兼ね備えた構えであった。

  • ​​外曲輪(そとぐるわ)…城郭の防御施設の一つで、本丸・二の丸などの外側に位置する郭をいう。惣構えが城下町全体を囲う広域の外郭線であるのに対し、外曲輪は城域を構成する一郭であり、堀や土塁・石垣によって区画される。江戸城では外曲輪が武家地や町人地の配置・境界を形づくり、現在の地名でいえば、おおむね丸の内・大手町・有楽町・霞が関・麹町・番町などがこれにあたる。

  • 枡形虎口(ますがたこぐち)…城郭の出入口に設けられる防御施設の一種。門の内外に直角に折れる区画(枡形)を設け、敵の進入方向を制限して足止めし、側面や背後から攻撃できる構造としたもの。石垣や土塁、多重の門を組み合わせることで防御力を高め、江戸城の見附にも広く用いられた。

  • ​麹町十一丁目から十三丁目…かつて四谷に存在した町名。現在の新宿区四谷一丁目・二丁目の一部。四谷最古の町人地とされる。​麹町一丁目から十丁目は、当然、外曲輪の内側、現在の千代田区麴町にある。

天下普請と四谷の起こり

四谷の伝馬町と天王社

く寛永14年(1637年)には、九州の島原・天草で、いわゆる「島原・天草一揆*」が勃発します。抑圧された農民とキリシタン(キリスト教徒)による一揆として知られるこの乱ですが、実際には旧小西家*の遺臣や浪人らも加わっており、戦国の残り火を思わせる武装蜂起の様相を帯びていました。
この大規模な一揆を鎮圧するため、幕府は江戸から九州の戦地へ大量の武器や兵糧、人員、書状などを送り出す必要に迫られ、江戸の兵站
(物流)体制そのものが試される重大な局面となりました。

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島原・天草一揆における原城攻防戦(島原陣図屏風からのイメージ)

乱の鎮圧後、幕府は公用輸送体制の整備を進め、各街道の宿駅(宿場)に置かれていた伝馬役・助郷の仕組みを、より大規模な輸送に対応できるよう強化していきました。
その過程で、各街道へ物資を送り出す江戸の拠点の整備も進められ、従来の日本橋周辺に加え、各街道の江戸口にも新たな輸送拠点が求められるようになります*。
甲州街道の江戸口に位置する四谷にも、こうした流れの中で伝馬町が置かれることとなりました。

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名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿(歌川広重)

寛永15年(1638年)、島原・天草一揆において「昼夜を分かたず人馬の御用を勤めた」功により、四ツ谷御門外の明地(空き地)大縄七百四十間が、日本橋大伝馬町に与えられました。この「大縄」とは、縄をもっておおよその土地の規模を定めた給地を意味すると考えられ、七百四十間を長さに見れば約一・三キロメートルほどになります。その規模は、四ツ谷見附から四ツ谷大木戸へと続く町並みの長さにもおおむね重なり、のちに形成される四谷の町場の骨格を予感させます。

外堀をはさんで四ツ谷御門の西向かい、現在の四谷一丁目や四谷本塩町周辺の一帯は、麹町十一丁目から十三丁目の町屋が移転してくる以前には、人家もまばらで、ほぼ未開発の土地であったとされています。

日本橋大伝馬町の人々は、この手つかずの土地に四ツ谷伝馬町*を起立し、あわせて塩問屋を配した四ツ谷塩町*も設け、公用輸送を支えました。

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四谷見附周辺の切絵図。青が四谷御門開通時に起立した町屋。橙が四谷伝馬町と起立した町屋。紫が後年に起立した町屋。

四ツ谷伝馬町は、日本橋大伝馬町の機能を補う形で設けられた伝馬役の拠点でした。大伝馬町の人々はこの地に出役(他所へ赴いて役務に就くこと)して居住し、人馬を常時確保して輸送に備えるとともに、不足する場合には周辺の村々からこれを供出させる仕組み(助馬役)を運用しました。

また、この時期、甲州街道(四ツ谷大道)の整備も進み、外堀沿いの通りから四ツ谷御門前を迂回せず、直接四ツ谷大木戸方面へ向かう経路が開かれました。これにより、四谷伝馬町から四谷大木戸に至る道筋はほぼ一直線に通り、その沿道には町屋が軒を連ね、ひと筋の町並みが形づくられていきます。人の往来も増え、四谷の町人地は、こののち急速に発展していくことになります。

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甲州街道の要所である四谷大木戸の賑わい(江戸名所図会)

さらに、日本橋大伝馬町から移ってきた町人たちは、四ツ谷伝馬町に小祠を建て、自らの産土神であった神田明神の牛頭天王社(二ノ宮)をこの地に迎え入れて祀りました。

その後、町の急速な繁昌を牛頭天王の御利益として信仰を深め、寛永20年(1643年)頃には、町人の総意によって、現在の須賀神社の起源とされる稲荷社へ遷されるに至ります。

こうして牛頭天王社と稲荷社は一つの社に合祀され、「四谷牛頭天王稲荷社」が成立しました。以後、神田明神の社家(神職の家系)である芝崎氏が神主を兼務し、稲荷は鮫河橋権現の鎮守、天王は四谷の町の鎮守として祀られるようになったと伝えられています。

やがて信仰は次第にこの社へと集まり、四谷の人々の崇敬を集めて、四谷十八ヵ町の総鎮守として、この界隈を見守る存在となっていきました。

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四谷牛頭天王社。下側に現在も名所となっている階段(男段)が描かれている(江戸名所図会)
  • ​島原・天草一揆(1637〜1638年)…肥前・島原と肥後・天草で起きた大規模な一揆。重い年貢や領主の圧政、キリスト教弾圧への不満が背景にあり、農民やキリシタンが蜂起した。幕府軍に鎮圧され、以後キリスト教禁制が強化された。

  • 小西家…豊臣秀吉の近侍・寵臣であった小西行長(こにしゆきなが)を祖とする大名家。行長は堺の商人の子として生まれ、才を見出されて武士となった。豊臣政権下では舟奉行を務め、天草を含む肥後国二十四万石を領した。文禄・慶長の役でも活躍したが、関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗れ斬首され、これにより小西氏は滅亡した。なお、行長は敬虔なキリシタンとしても知られる。

  • 江戸口の新たな輸送拠点…日本橋大伝馬町には、甲州街道の江戸口にあたる四谷伝馬町が与えられたほか、日本橋南伝馬町には、中山道の江戸口に相当する赤坂表伝馬町および赤坂裏伝馬町が与えられた。

  • 四ツ谷伝馬町(よつやてんまちょう)…かつて四谷に存在した町名。初めは「四谷新大伝馬町」と称し、一~三丁目が設けられた。その範囲は、おおむね現在の四谷一~三丁目に相当する。

  • 四ツ谷塩町(よつやしおちょう)…かつて四谷に存在した町名。一~三丁目が設けられた。一丁目は現在の本塩町に相当するが、二・三丁目はすこし離れ、現在の四谷三丁目・四丁目付近に所在した。

代は再び流れ、四代将軍・徳川家綱の治世となります。この時代は、まだ町火消し*の制度が成立する前であったこともあり、江戸の町では火災が多発していましたが、明暦3年(1657年)には、江戸初期最大の大火である明暦の大火*が発生しました。振袖火事として知られるこの火災は、未曾有の規模となり、本郷から芝高輪に至るまでが焼失し、江戸城本丸も消失するなど、江戸市中に甚大な被害をもたらしました。

しかし、外堀の外側に位置した四谷では被害は比較的軽微にとどまり、これを契機として、さらなる拡大期を迎えることとなります。

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​明暦の大火のイメージ。(「むさしあぶみ」より)

大火以降、幕府は防火と都市再編の観点から屋敷地の再配置を進め、諸大名の間でも大火への備えとして郊外に下屋敷・中屋敷を構える動きが広がっていきます。延宝年間(1673年~1681年)以降には、現在の荒木町に置かれた松平摂津守家の下屋敷や、四谷尾張町*の尾張徳川家の中屋敷をはじめ、四谷や赤坂といった外縁部にも多くの大名屋敷が設けられました。

また、町人の間でも、都市中心部の過密や度重なる火災への不安に加え、地代の高さや街道沿いの商機を求めて、江戸外縁部へと生活と商いの場を移す動きが広がります。

これに伴い、四谷では新たな町人地が次々と形成され、既存の武家地の一部も段階的に町人地へと転換されていきました。貞享年間(1684年~1688年)頃には、四ツ谷御箪笥町や四ツ谷坂町をはじめ、周辺の町々でも同様の動きがみられました。

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大名屋敷門前の図(歌川広重「江都勝景 芝新銭坐之図」より)

こうした武家地の展開と町人地の拡充が重なり合うなかで、四谷の町はしだいに骨格を整え、元禄期を迎える頃には、町割りと人口の大勢はおおよそ定まり、町のかたちはほぼ完成を見たと考えられます。

かくして四谷は、城外の一隅から花のお江戸八百八町の一街区へと姿を変え、やがて天下の江戸を支える町の一つとして、その連なりの中に加わっていくこととなったのです。

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お江戸八百八町の中心地、日本橋の賑わい(江戸名所図会)
  • 町火消し​(まちびけし)…町火消しとは、江戸の町人地の消火を担った組織で、享保期(1716年~1736年)に幕府が制度化した。町火消しは町々から人足を出して編成され、いろは組などに分かれ、火災時には家屋を打ち壊して延焼を防ぐ破壊消火を行った。それ以前の江戸では、大名に課された大名火消や幕府直属の定火消が主に消火にあたり、町人もこれを補助する形で対応していた。

  • 明暦の大火(めいれきのたいか)…明暦3年(1657年)に江戸で発生した大火。「振袖火事」とも呼ばれ、本郷の本妙寺付近を火元とする説がある。江戸城本丸や武家地・町人地の大半を焼失させ、死者は数万人に及んだとされる。以後、都市改造や防火体制の整備が進められる契機となった。

  • ​四谷尾張町(よつやおわりちょう)…かつて四谷に存在した町名。現在の四谷一丁目の一部であり、その名称は尾張名古屋藩中屋敷に由来する。

  • 四ツ谷御箪笥町(よつやおたんすちょう)…かつて四谷に存在した町名。現在の四谷三栄町の一部。貞享2年(1685年)に町屋として起立。町名の由来は不詳。

さて、ここまで四谷の町の成り立ちと、その礎となったあれこれ、また四谷総鎮守・須賀神社へと続く四谷天王稲荷社の縁起について述べてきました。

次のコラムでは、さらに一歩踏み込み、四谷天王稲荷社に祀られていた二柱の御祭神(御両社)と天王信仰についてお話しします。続きは、また次の機会に。

花のお江戸の四谷でござる

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