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荒木町コラム 須賀神社と祭礼②

四谷の御祭神と天王信仰

のコラムで触れた「四谷天王稲荷社」――江戸土着の稲荷に、日本橋大伝馬町の天王をあわせ祀ったこの社ですが、あらためて目を向けてみると、江戸の町人が育んできた信仰のかたちと、それがいかに今の四谷十八ヶ町に息づいているかが、浮かび上がってきます。

今回は、現在は須賀神社と名を改めたこの四谷天王稲荷社と、そこに祀られている二柱の主祭神について、もう少しばかり踏み込んでみることといたしましょう。

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現在の須賀神社の本殿(イメージ)

四谷の御両社と江戸の信仰

谷天王稲荷の面白いところは、主祭神を二柱祀る、いわゆる「御両社」である点にあります。祀られているのは、須佐之男命(素戔嗚尊/スサノオノミコト)と宇迦能御魂命(稲荷大神/ウカノミタマノミコト)の二柱。
浅草の三社さまのような華やかさはないかもしれませんが、こちらは一柱一柱が実に骨太です。荒々しさと恵みをあわせ持つ神々を、きっちりと両脇に据えているあたり、いかにも四谷らしい構えといえるでしょう。

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ウカノミタマ(左)とスサノオ(右)のイメージ

じつは、江戸では、ひとつの神社に複数の神が祀られることは珍しいことではありませんでした。

新興の大都市であった江戸では、町の成立とともに守護神が求められ、各地から多様な信仰が流れ込みました。加えて、職分や生業に応じた神々への願いもまた、町のあちこちに根を下ろしていきました。とはいえ、そうした多様な信仰を、それぞれに社を構えて祀るには、町の空間はあまりに限られていました。そのため、自然と、ひとつの社に複数の神をあわせ祀るかたちが選ばれるようになっていったと考えられます。

こうした中で、疫病除けの神である天王社と、豊穣を司る稲荷社とをあわせ祀るかたちも、江戸の町々でもしばしば見られた構えでありました。

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稲荷社(左)と天王社(右)のイメージ

とはいえ、複数の神格を同じ社に祀る場合でも、多くは主祭神を中心に、配祀神や境内社として従属的に配されるのが常であったようです。そのため、主祭神を二柱以上並べて祀る社は、江戸の内外を見渡しても、そう多くはなかったと考えられます。

さらに申せば、主祭神を二柱以上祀る場合であっても、由縁の近い神々が祀られることが多かったようです。これに対し、「四谷天王稲荷社」のように、系統を異にする神々を並立させたまま信仰の中心に据えている例は、いささか風変わりです。どちらかに収めることなく、二つの信仰をそのまま抱え込むようにして受け継いできたところに、この社の面白さがあります。武家地と町人地、そして街道の往来が交差する“境界”に位置する四谷の町ならではの趣ともいえるでしょう。

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江戸市民の信仰を集めた水天宮の図。東京開化三十六景(三代歌川広重)より

さて、それでは次の章では、この二柱の神々、それぞれの来歴にもう少し踏み込んでみることといたしましょう。

本橋大伝馬町の産土神であった、神田明神の天王社から勧請*された神格が、須佐之男命(素戔嗚尊/スサノオノミコト)です。

須佐之男命スサノオは、『古事記』『日本書紀』に登場する荒ぶる神で、天皇家に連なる天津神*でありながら、地上の世界である葦原中国*に深く関わり、国津神*としての性格もあわせ持つ神として知られています。天照大神*アマテラスと対立して高天原*を追われた須佐之男命は、出雲の地に降り立ち、八岐大蛇*(ヤマタノオロチ)退治に象徴されるように、荒ぶる力をもって災厄に立ち向かい、国土を鎮めました。その後、出雲の国に須賀の宮を営み、櫛名田比売*(クシナダヒメ)を娶って、大国主命*(オオクニヌシ)など国津神の系譜に連なる祖神の一柱となったとされます。
天から秩序を授ける神というよりも、地上の混沌や災いを引き受け、現実の土地や人々の営みに深く関わる点に、この神の大きな特徴があります。

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ヤマタノオロチを鎮めるスサノオ(イメージ)

仏教伝来後、須佐之男命は、祇園精舎*の守護神ともされる牛頭天王(ごずてんのう)と習合*していきます。

牛頭天王は、その名が示すように異形の神として捉えられ、疫病や死、境界を司る神格として、外来の信仰の影響を受けつつ日本へ伝えられました。疫病や災厄をもたらす一方で、それを鎮め祓う力をもつという性格は須佐之男命とも通じ、両者は次第に同一の神格として認識されるようになっていきました。

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牛頭天王坐像(イメージ)

人口が密集し疫病が流行しやすい都市では、この神への信仰はとりわけ強く求められることになります。こうした信仰は、平安時代、京都において疫病退散を願って行われた御霊会*に端を発し、祇園に祀られた牛頭天王(現在の八坂神社*)への信仰は「祇園信仰」として形を整えていきました。

その後、中世(鎌倉時代以降)を通じてこの信仰は各地へと広がり、在地の神々と結びつきながら、牛頭天王は「天王さま」として広く祀られるようになります。さらに近世(江戸時代)に入ると、都市の発展とともに疫病除け・都市守護の神としての性格を強め、江戸の町々にも深く根付いていきました。

こうして、疫病除けと都市守護を願う信仰は「天王信仰」として広く定着していきます。江戸では、神田明神の摂社*として祀られた天王社などを拠点として、町人たちの疫病除けの神として信仰されていきました。こうした流れの中で、四谷にもまた「天王さま」が迎えられることになったのです。

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祇園信仰の中心地である八坂神社(イメージ)
  • 勧請(かんじょう)…他の神社から神霊を分け迎え、別の地に祀ること。

  • 天津神と国津神(あまつかみ と くにつかみ)…日本神話において、天上の高天原に起源をもつ神々を天津神、地上に古くから祀られてきた神々を国津神という。天津神の系統は天照大神から天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を経て天皇家へと連なるとされ、国津神は大国主命(おおくにぬしのみこと)など在地の神々を指す。国譲りや天孫降臨の神話は、両者の関係を象徴的に物語る。

  • ​高天原と葦原中国(たかまがはら と あしはらのなかつくに)…日本神話において、神々が住まう天上世界を高天原、人々の暮らす地上世界を葦原中国という。葦原中国は当初、須佐之男命の系統である大国主命が治めていたが、天照大神の意向により、大国主命が葦原中国の統治を天孫に譲り(国譲り)、のちに天孫・瓊瓊杵尊が高天原から葦原中国へ降った(天孫降臨)。

  • ​天照大神(あまてらすおおみかみ)…日本神話における最高神で、太陽を司る女神。皇室の祖神とされ、伊勢神宮に祀られる。弟神・須佐之男命との対立と和解の神話で知られ、天孫降臨を通じて天皇家の正統性の根拠とされた。

  • ​八岐大蛇(やまたのおろち)…日本神話に登場する、八つの頭と尾をもつ大蛇の怪物。出雲の地で人々に災厄をもたらしたが、須佐之男命によって退治された。その尾から草薙剣が得られたとされる。この神話は、斐伊川(ひいかわ)の氾濫を象徴したもの、あるいは鉄の生産や技術を背景とする伝承とみる説もある。斐伊川は氷川の語源ともされることから、須佐之男命を祀る氷川信仰へとつながり、関東各地にも広まった。

  • 櫛名田比売(くしなだひめ)…日本神話に登場する女神で、須佐之男命の妻。八岐大蛇に生贄として捧げられるところを須佐之男命に救われ、その後妻となったとされる。農耕や稲作とも結びつく神とされ、須佐之男命とともに祀られることも多い。

  • ​大国主命(おおくにぬしのみこと)…日本神話に登場する国津神の主宰神で、出雲を中心に広く信仰された。大己貴命(おおなむち)とも称される。須佐之男命の子孫とされ、国造りの神話で知られる。少名毘古那神(スクナビコナ)の協力を得て農業や医術を人々に授け、生活や社会の基盤を整えることで葦原中国の国造りを成し遂げた。のちに国譲りにより天照大神の系統に国を譲り、その代償として出雲大社が造営されたと伝えられる。大国魂神(おおくにたま)と同一視されることもある。また、名の「大国(だいこく)」に通じることから仏教の大黒天と習合し、福の神としても広く信仰された。

  • ​祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)…古代インドの舎衛城(シュラーヴァスティー/現在のインド北部のウッタル・プラデーシュ州)にあった仏教寺院。正式名称は祇樹給孤独園。釈迦が説法を行った聖地で、日本では『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声」により、諸行無常の象徴として広く知られる。

  • ​神仏習合(しんぶつしゅうごう)…神道と仏教が結びつき、神と仏を一体のものとして祀る信仰形態をいう。仏教伝来(6世紀)以降、日本では在来の神祇信仰との共存が図られ、奈良・平安時代を通じて両者は次第に融合していった。本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)により、仏(本地)が衆生を救うために仮の姿として現れたもの(垂迹)が神とされ、神社に寺院が付属するなど、両者は一体として営まれたが、明治の神仏分離により解体された。

  • 御霊会(ごりょうえ)…怨霊や非業の死を遂げた者の霊(御霊)を鎮め、疫病や災厄を防ぐために行われた祭礼で、平安時代に始まる。とくに疫神信仰と結びつき、祇園御霊会をはじめとする行事として各地に広まった。

  • ​八坂神社(やさかじんじゃ)…京都・祇園に鎮座する神社で、全国に広がる祇園信仰の中心とされる。祭神は須佐之男命で、疫病退散の神として信仰された。かつては祇園社・祇園天王社とも称され、牛頭天王信仰の本拠として江戸の天王社にも大きな影響を与えた。

  • ​摂社(せっしゃ)…神社に付属する小社の一種で、本社と特に縁の深い神を祀るもの。本社の祭神と由緒的・系譜的に関係のある神が祀られる場合が多く、末社よりも格が高いとされる。

須佐之男命と天王信仰

稲荷信仰と須賀神社の成立

一方、赤坂・清水谷の一ツ木村*から遷ってきた神格が、宇迦能御魂命(稲荷大神ウカノミタマノミコト)です。

宇迦能御魂命(ウカノミタマ)は、『古事記』に登場する穀物の女神で、神話の系譜においては須佐之男命(スサノオ)の子ともされる国津神の一柱。古くから土地に宿り、人々の暮らしに寄り添う穀霊信仰*の対象とされ、きわめて生活に近い神格として広く信仰を集めてきました。

須佐之男命が、牛頭天王との習合を経て都市的な信仰として再編されていった神であるのに対し、宇迦能御魂命は、古くからの穀霊信仰を基盤としながら、時代とともにその性格を広げ、人々の暮らしの中に深く根を下ろしていった神といえます。

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ウカノミタマと使者(イメージ)

この宇迦能御魂命(ウカノミタマ)を中心とする農耕神を、民間信仰の中で親しみをもって呼び慣わしてきた名が、稲荷大神(いなりおおかみ)、いわゆる「お稲荷さん」です。「稲荷」という名は、「稲が成る」「稲を荷う」に通じるともいわれており、この信仰は「稲荷信仰」と呼ばれました。

稲荷信仰は、和同年間(708年~715年)に創建され、山城国・稲荷山の峰に宇迦能御魂命ほか四柱の農耕神が祀ったとされる京都・伏見稲荷大社*を中心として、その信仰の核が形づくられていきました。

この伏見稲荷大社を中心とする信仰は、平安期には、五穀豊穣が国家の安寧に通じていたことから、朝廷や貴族の篤い崇敬を集めました。やがて中世に入ると、領地を治める武士たちの信仰をも集めるようになり、さらに都市の発展とともに、その性格を広げ、商売繁盛や財運をもたらす神としても受け入れられていきます。

江戸時代に入ると、その信仰はいっそう広がり、商売繁盛や家運長久といった個々の暮らしに結びつくご利益とも相まって、屋敷稲荷や町内の鎮守としても広く祀られ、武家・町人を問わず、人々の生活に身近な守り神として定着していきました。

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稲荷信仰の御本社である京都・伏見稲荷大社(イメージ)

江戸の町人は、疫病や火災といった災厄を防ぐとともに、商業や日々の暮らしの安定を願い、こうした異なる性格の神々を、同じ社に祀っていたのでしょう。

その意味で、疫病退散を願う天王と、暮らしを守る稲荷という二柱をあわせ祀る四谷天王稲荷社の形は、江戸の町人の信仰のあり方をよく表しているといえます。

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御両社を祀る須賀神社の本殿(イメージ)

このように、寛永期の合祀以降、四谷で篤く信仰されてきた四谷天王稲荷社ですが、明治維新後の明治元年(1868年)、神仏分離令*を受け、牛頭天王をはじめとする仏教色の強い要素をそのまま掲げることが困難となったため、「天王社」を改め、現在の「須賀神社」へと改称されました。

「須賀」という名は、須佐之男命(スサノオ)が出雲で宮を営んだ地に由来します。須佐之男命は、八岐大蛇を退治したのちこの地に至り、「吾れ此の地に来たりて心すがすがし(須賀須賀し)」と語ったという故事が知られています。

また、須佐之男命はこの地で「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という歌*を詠み、この地にとどまることとしたとも伝えられています。ここから、大国主神(オオクニヌシ)に連なる出雲の系譜が展開し、葦原中国の国作りへとつながっていったのです。

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須佐之男命が営んだ須賀の宮の地と伝えられる島根県雲南市の須我神社(イメージ)

現在でも須賀神社の社殿には、一部、文政年間(1818年~1831年)に建設された当時のものが残されており、境内では往時の面影を偲ぶことができます。

八雲立つ、とまではいきませんが——四谷の高台にそびえる須賀神社は、江戸の頃より四谷十八ヵ町の総鎮守として、いまもこの界隈を静かに見守り続けているのです。

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四谷須賀神社の男段(イメージ)
  • 一ツ木村(ひとつぎむら)…江戸初期まで現在の赤坂周辺にあった村落。江戸の市街化に伴い町人地・武家地へと再編され、村は解体されて町へと転じた。現在の赤坂四丁目・五丁目付近には、赤坂一ツ木町の名跡が残る。名称の由来は諸説あるが、古・奥州街道の人馬継立(輸送のための人足や馬の手配)の拠点であったことから、「人継ぎ」に由来するとの説がある。

  • 穀霊信仰(こくれいしんこう)…穀物に霊魂が宿ると信じ、その霊を祀ることで豊作を願う、日本古来の信仰をいう。生活基盤である稲作と深く結びつき、新嘗祭(にいなめさい)など、現代に続く農耕儀礼の根幹をなしている。

  • ​伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)…京都にある稲荷神社の総本社で、主祭神は宇迦之御魂神。古くから五穀豊穣の神として信仰され、商売繁盛の神としても広く崇敬を集める。朱塗りの千本鳥居で知られ、全国の稲荷社の信仰の源流とされる。

  • 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)…明治元年(1868年)に出された神道と仏教の分離政策。神社から仏教的要素を排除することが命じられ、廃仏毀釈の動きも引き起こし、各地の信仰や寺社のあり方に大きな影響を与えた。

  • ​「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」…須佐之男命が櫛名田比売を妻として迎えるにあたり、出雲に宮を構え、妻を囲い守る喜びを詠んだとされる和歌。『古事記』に見える最古の和歌の一つとされる。

て、ここでひとつ閑話を挟んでみましょう。

荒木町の町内紹介コラムでも触れましたが、この町内でも二柱の神をお祀りしており、「御両社」として親しまれています。

荒木町町会では、この町内両社について、毎年両社祭を開催し、宮司をお招きしてお祀りしています。

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荒木町に鎮座する金丸稲荷神社(イメージ)

町内両社の一つが金丸稲荷神社(かねまるいなりじんじゃ)です。

松平摂津守家の屋敷神を起源とするため、成り立ちは須賀神社とは異なりますが、祀られているのは同じく宇迦能御魂命(ウカノミタマ)であり、神話の系譜では須佐之男命(スサノオ)の子ともされる神です。武家の家運長久や町内の商売繁盛の願いに寄り添い、暮らしに近い神として篤く信仰されてきました。また、大正の関東大震災において災禍を免れ、戦時中の山手大空襲では街が戦火に襲われるなか、町民に一人の死者も出なかったという、ご利益も伝えられています。

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策の池の畔に鎮座する津の守弁財天(イメージ)

もう一つの町内両社が津の守弁財天(つのかみべんざいてん)です。

弁財天は七福神の紅一点であり、水と芸能の女神として知られています。かつて津の守弁財天の周囲には、策の池(むちのいけ)と呼ばれる大きな池が水を湛え、そのほとりには多くの茶屋や料亭が軒を連ねていました。ここでは多くの芸者衆が夜な夜な席を囲っており、彼女たちが水辺の芸能の女神を篤く信仰していたことは、想像に難くありません。​​

また、この弁財天は神仏習合のもとでは、市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)と同一視されました。市杵嶋姫命は宗像三女神*の一柱で、商売や芸能、海を司る女神とされています。天照大神(アマテラス)と須佐之男命(スサノオ)の誓約*によって生まれた神であり、須佐之男命の系譜に連なる存在とされています。

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弁財天坐像(イメージ)

こうして見てみると、須賀神社の御両社も荒木町の御両社も、いずれも須佐之男命(スサノオ)の系譜に連なる神々をお祀りしていることがわかります。偶然とはいえ、なんとも不思議な縁を感じずにはいられません。

荒木町という窪地そのものが、須佐之男命の大きな腕にそっと抱かれている――そんな気さえしてくるのです。

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八雲立つ 荒木町町域(イメージ)
  • 宗像三女神(むなかたさんじょしん)…市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)・田心姫命(たごりひめのみこと)・湍津姫命(たきつひめのみこと)の三柱の女神の総称。『古事記』『日本書紀』では、天照大神と須佐之男命の誓約の際に生まれたとされる。三女神は天照大神が須佐之男命の剣を嚙み、その息から生まれた神であり、この由来から須佐之男命の系譜に属する神とされる。古くから航海安全や交通の守護神として信仰され、福岡県の宗像大社などに祀られている。

  • 誓約(うけい)…ここでは天照大神と須佐之男命の誓約を指す。日本神話において、両神が互いの持ち物を用いて神を生み、その心の清浄を占った神事。天照大神は須佐之男命の剣を用いて三柱の女神(宗像三女神)を生み、須佐之男命は天照大神の勾玉を用いて五柱の男神を生んだとされる。この結果、須佐之男命の心に邪意がないことが示されたと解される。なお、このとき生まれた三女神と五柱の男神は、あわせて「八王子」と総称されることがあり、中世以降の八王子信仰へとつながるとも考えられる。

さて、次のコラムでは、いよいよ江戸の天王祭と四谷の祭礼の形のお話へと移ることにしましょう。続きはまた次の機会に。

〈閑話〉荒木町の御両社

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