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荒木町コラム 須賀神社と祭礼②

四谷の御祭神と二つの信仰

継

前のコラムで触れた「四谷天王稲荷」――赤坂一ツ木村から遷された稲荷社に、日本橋大伝馬町の天王社をあわせ祀ったこの神社ですが、あらためてその歩みに目を向けてみると、江戸の人々が育んできた信仰のかたちと、それが今なお四谷の町々に息づいている様子が浮かび上がってきます。

今回は、現在の須賀神社へとつながる四谷天王稲荷の歴史と、そこに祀られてきた二柱の主祭神について、もう少しばかり踏み込んでみることといたしましょう。

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四谷の御両社と江戸の信仰

四谷天王稲荷の面白いところは、二つの社をあわせ祀り、二柱の主祭神をもつ「御両社」である点にあります。祀られているのは、須佐之男命(素戔嗚尊/スサノオノミコト)と宇迦能御魂命(稲荷大神/ウカノミタマノミコト)の二柱。
浅草の三社さま*のような華やかさはないかもしれませんが、こちらは一柱一柱が実に骨太です。荒々しさと恵みをあわせ持つ神々を、きっちりと並べて据えているあたり、いかにも四谷らしい構えといえるでしょう。​

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ウカノミタマ(左)とスサノオ(右)のイメージ

江戸という町は、そもそも各地から人々が集まり、さまざまな文化や信仰が入り交じって発展してきた都市です。神さまもまた例外ではなく、江戸の町には実に多種多様な神々が祀られていました。

古くからその土地に鎮座する神々もいれば、新しい町が生まれれば新たな守護神が求められ、さまざまな民間信仰や流行神への信仰も、町のあちこちで盛んになっていきます。

とはいえ、町が発展して人口が増加した江戸の中心部では、新たな神々を迎えるたびに、それぞれ独立した社を構えることは、そう容易ではありません。限られた町の空間で、多様な神々をどのように祀るか。そこで、すでにある神社の境内に新たな社を設けたり、ひとつの社に複数の神をあわせ祀ったりする方法も、町の実情に応じた工夫として取り入れられたものだったのでしょう。

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『江戸名所図会』「三崎稲荷社」より。稲荷を祀った本社のほか、金毘羅、天神、落合明神など、さまざまな神を祀った社が境内に立ち並んでいる。

もっとも、複数の神を同じ神社に祀る場合でも、それぞれの神が同じ位置づけにあるとは限りません。一柱の主祭神を中心に、ほかの神々を配祀神*として祀ったり、境内に摂社*や末社*を設けたりする形も広くみられます。

これに対し、四谷天王稲荷では、異なる由緒をもつ天王社と稲荷社が「御両社」として祀られ、それぞれの神をともに主祭神として、信仰の中心に据えているのです。

どちらか一方にまとめることなく、二つの信仰をそのまま抱え込むようにして受け継いできたところに、この社の面白さがあります。武家地と町人地、そして街道の往来が交差する“境界”に位置する四谷の町ならではの趣ともいえるでしょう。

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さて、それでは、この二柱の神々それぞれの来歴に、もう少し踏み込んでみることといたしましょう。

歌川広重『絵本江戸土産』第二編「鉄炮洲湊稲荷境内の不二」 (1).jpg
歌川広重『絵本江戸土産』「鉄炮洲湊稲荷境内の不二」より。鉄炮洲の湊稲荷社では、境内に人工の富士山(富士塚)を築き、浅間宮を祀っていた。異なる信仰を一つの境内に迎え入れるところに、江戸の宗教文化の豊かさが感じられる。
  • 浅草の三社さま…浅草神社のこと。浅草寺の本尊である観音像を隅田川で引き上げたと伝わる漁師の檜前浜成・武成兄弟と、その像を祀った土師真中知の三人を神として祀る神社。江戸時代には「三社権現」と呼ばれ、浅草寺と一体となって祭礼が営まれた。三社祭では、氏子町々が趣向を凝らした山車を繰り出し、三基の神輿を船に載せて隅田川を進む「船渡御」も行われ、大いに賑わった。

  • 配祀神(はいししん)…神社で中心となる主祭神に添えて、ともに祀られる神のこと。主祭神との区別は、その神社における祭祀上の位置づけを示すもので、神そのものの格の上下を意味するものではない。

  • ​摂社・末社(せっしゃ・まっしゃ)…いずれも本社に付属する社のこと。摂社は本社の祭神や由緒と特に深い関わりをもつ神を祀る社で、末社はそれ以外の神を祀る社を指す。伝統的には摂社が末社より上位に位置づけられていたが、現在では両者の区別は必ずしも厳密ではない。

かつて日本橋大伝馬町の守護神として神田明神の境内に祀られ、のちに四谷へ勧請*された神が、現在の須賀神社の主祭神である須佐之男命(素戔嗚尊/スサノオノミコト)です。

もっとも、前回のコラムをお読みいただいた方のなかには、「神田明神から勧請されたのは、牛頭天王ではなかったか」と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょう。実際、当時は「牛頭天王」として祀られていました。

それでは、なぜ現在は須佐之男命として祀られているのでしょうか。

まずは須佐之男命がどのような神なのかを確認し、続いて牛頭天王との関係についても整理していきましょう。

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ヤマタノオロチを鎮めるスサノオ(イメージ)

​須佐之男命(スサノオ)は、『古事記』『日本書紀』に登場する荒ぶる神で、天皇家に連なる天津神*(あまつかみ)でありながら、地上の世界である葦原中国*(あしはらのなかつくに)に深く関わり、国津神*(くにつかみ)としての性格もあわせ持つ神として知られています。天照大神*(アマテラス)と対立して高天原*(たかまがはら)を追われた須佐之男命は、出雲の地に降り立ち、八岐大蛇*(ヤマタノオロチ)退治に象徴されるように、荒ぶる力をもって災厄に立ち向かい、国土を鎮めました。その後、出雲の国に須賀の宮を営み、櫛名田比売*(クシナダヒメ)を娶って、大国主命*(オオクニヌシ)など国津神の系譜に連なる祖神の一柱となったとされます。
天から秩序を授ける神というよりも、地上の混沌や災いを引き受け、現実の土地や人々の営みに深く関わる点に、この神の大きな特徴があります。

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牛頭天王坐像(イメージ)

この須佐之男命(スサノオ)と深く結びついていくことになるのが、牛頭天王(ごずてんのう)です。

牛頭天王は、仏教的な要素を色濃くもつ神格で、伝承では古代インドの祇園精舎*の守護神とされました。その名のとおり、牛の頭や角をもつ恐ろしい姿で表されることもあり、疫病をもたらす荒ぶる神である一方、疫病や災厄を鎮め、人々を守る神としても信仰されました。

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こうした牛頭天王と須佐之男命が同一視されるようになるうえで、重要な役割を果たしたのが、「蘇民将来(そみんしょうらい)」の説話でした。

『備後国風土記』に由来するとされる、この説話では、旅の途中で宿を求めた武塔神(むとうしん)は、裕福な弟の巨旦将来(こたんしょうらい)には宿を断られますが、貧しい兄の蘇民将来からは心を尽くしたもてなしを受けます。

数年後、再び現れた武塔神は、宿を貸さなかった巨旦将来の一族を滅ぼす一方、蘇民将来の恩に報いるため、その娘に茅の輪*(ちのわ)を身につけさせて命を救いました。そして、自らを須佐之男命であると名乗り、後世に疫病が流行した際には、「蘇民将来の子孫」であることを示し、茅の輪を身につければ疫病から免れると教えました。

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蘇民将来符(イメージ)。蘇民将来の説話に由来する疫病・災厄除けの護符で、「蘇民将来子孫也」などと記し、家の門口などに掲げることで、疫病や災厄から身を守ることを願った。

この説話には牛頭天王の名は登場しません。しかし、中世には武塔神が祇園社の牛頭天王と同一視されるようになっており、さらに蘇民将来の説話では、武塔神が自らを須佐之男命と名乗っていることから、牛頭天王と須佐之男命も同じ神として理解されるようになりました。

こうして中世の神仏習合*のなかで、もともと異なる来歴をもつ牛頭天王と須佐之男命は、次第に重ね合わせて理解されるようになります。ともに荒々しい力をもちながら、その力によって疫病や災厄を退け、人々を守る神として信仰されたことも、両者が深く結びついていく背景の一つとなったのでしょう。

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『花洛名勝図会』「祇園社図絵」より。現在の八坂神社にあたる祇園社の、江戸時代の境内を描いたもの。荘厳な楼門や本殿、参詣する人々の姿から、牛頭天王信仰の拠点として、多くの人々の崇敬を集めていた様子がうかがえる。

こうした牛頭天王信仰の中心地となったのが、京都の祇園社(現在の八坂神社)です。

平安時代の京都では、たびたび流行する疫病を鎮めるため、御霊会*と呼ばれる祭礼が各地で行われていました。こうしたなか、祇園社も疫病除けを祈願する場として朝廷や貴族の崇敬を集め、比叡山延暦寺との結びつきを深めながら、大きな信仰の拠点へと発展していきました。

平安時代中期の天禄元年(970年)には、「祇園御霊会」が疫病除けを願う恒例の祭礼として定着したとされ、やがて神輿の渡御にさまざまな芸能が加わるなど、次第に盛大な祭礼へと発展していきます。さらに中世になると、京都の町衆が山鉾*を繰り出すようになり、祇園御霊会は都を代表する都市祭礼へと成長しました。これが、現在まで受け継がれている京都の「祇園祭」です。​​

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『都名所図会』「祇園会」より。華やかな山鉾が京の町中を巡行する様子が描かれている。山鉾には、疫病や災厄をもたらす疫神を鎮め、神輿の渡御に先立って都の町を清める役割があったとされる。

このように、牛頭天王を祀り、疫病や災厄を退けることを願う信仰は「祇園信仰」と呼ばれるようになります。やがて祇園信仰は全国各地へと広まり、各地で勧請された牛頭天王は「天王さま」として親しまれ、天王社などに祀られるようになりました。こうした牛頭天王への信仰は「天王信仰」とも呼ばれ、それぞれの土地の信仰や習俗とも結びつきながら、広く根づいていきます。

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さらに近世になると、疫病除けの天王信仰は、人口の集中する江戸の町にも深く浸透していきました。

江戸には、神田明神の境内に祀られた三つの牛頭天王社をはじめ、品川の南北の天王社、浅草蔵前の団子天王、南千住・小塚原の千住天王、橋場の牛頭天王など、各地に「天王さま」を祀る社がありました。これらの社は、疫病や災厄から町を守る身近な神として人々の信仰を集め、その祭礼も地域の人々によって大切に受け継がれてきました。

四谷に「天王さま」が迎えられることになった背景には、こうした信仰の広がりがあったのです。​

浅草蔵前の篠団子祇園会
『江戸名所図会』「祇園会篠団子」より。浅草蔵前の牛頭天王社で行われた祭礼の様子。氏子たちは篠(ささ)の枝に団子を付けて奉納し、参詣者はその団子を疫病除けのお守りとして持ち帰った。大勢の人々で賑わう境内から、天王信仰が庶民の暮らしに根づいていたことがうかがえる。
  • 勧請(かんじょう)…他の神社から神霊を分け迎え、別の地に祀ること。

  • 天津神と国津神(あまつかみ と くにつかみ)…日本神話において、天上の高天原に起源をもつ神々を天津神、地上に古くから祀られてきた神々を国津神という。天津神の系統は天照大神から天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を経て天皇家へと連なるとされ、国津神は大国主命(おおくにぬしのみこと)など在地の神々を指す。国譲りや天孫降臨の神話は、両者の関係を象徴的に物語る。

  • ​高天原と葦原中国(たかまがはら と あしはらのなかつくに)…日本神話において、神々が住まう天上世界を高天原、人々の暮らす地上世界を葦原中国という。葦原中国は当初、須佐之男命の系統である大国主命が治めていたが、天照大神の意向により、大国主命が葦原中国の統治を天孫に譲り(国譲り)、のちに天孫・瓊瓊杵尊が高天原から葦原中国へ降った(天孫降臨)。

  • ​天照大神(あまてらすおおみかみ)…日本神話における最高神で、太陽を司る女神。皇室の祖神とされ、伊勢神宮に祀られる。弟神・須佐之男命との対立と和解の神話で知られ、天孫降臨を通じて天皇家の正統性の根拠とされた。

  • ​八岐大蛇(やまたのおろち)…日本神話に登場する、八つの頭と尾をもつ大蛇の怪物。出雲の地で人々に災厄をもたらしたが、須佐之男命によって退治された。その尾から草薙剣が得られたとされる。この神話は、斐伊川(ひいかわ)の氾濫を象徴したもの、あるいは鉄の生産や技術を背景とする伝承とみる説もある。斐伊川は氷川の語源ともされることから、須佐之男命を祀る氷川信仰へとつながり、関東各地にも広まった。

  • 櫛名田比売(くしなだひめ)…日本神話に登場する女神で、須佐之男命の妻。八岐大蛇に生贄として捧げられるところを須佐之男命に救われ、その後妻となったとされる。農耕や稲作とも結びつく神とされ、須佐之男命とともに祀られることも多い。

  • ​大国主命(おおくにぬしのみこと)…日本神話に登場する国津神の主宰神で、出雲を中心に広く信仰された。大己貴命(おおなむち)とも称される。須佐之男命の子孫とされ、国造りの神話で知られる。少名毘古那神(スクナビコナ)の協力を得て農業や医術を人々に授け、生活や社会の基盤を整えることで葦原中国の国造りを成し遂げた。のちに国譲りにより天照大神の系統に国を譲り、その代償として出雲大社が造営されたと伝えられる。大国魂神(おおくにたま)と同一視されることもある。また、名の「大国(だいこく)」に通じることから仏教の大黒天と習合し、福の神としても広く信仰された。

  • ​祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)…古代インドの舎衛城(シュラーヴァスティー/現在のインド北部のウッタル・プラデーシュ州)にあった仏教寺院。正式名称は祇樹給孤独園。釈迦が説法を行った聖地で、日本では『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声」により、諸行無常の象徴として広く知られる。

  • ​神仏習合(しんぶつしゅうごう)…神道と仏教が結びつき、神と仏を一体のものとして祀る信仰形態をいう。仏教伝来(六世紀)以降、日本では在来の神祇信仰との共存が図られ、奈良・平安時代を通じて両者は次第に融合していった。本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)により、仏(本地)が衆生を救うために仮の姿として現れたもの(垂迹)が神とされ、神社に寺院が付属するなど、両者は一体として営まれたが、明治の神仏分離により解体された。

  • 御霊会(ごりょうえ)…怨霊や非業の死を遂げた者の霊(御霊)を鎮め、疫病や災厄を防ぐために行われた祭礼で、平安時代に始まる。とくに疫神信仰と結びつき、祇園御霊会をはじめとする行事として各地に広まった。

  • ​八坂神社(やさかじんじゃ)…京都・祇園に鎮座する神社で、全国に広がる祇園信仰の中心とされる。祭神は須佐之男命で、疫病退散の神として信仰された。かつては祇園社・祇園天王社とも称され、牛頭天王信仰の本拠として江戸の天王社にも大きな影響を与えた。

  • ​山鉾(やまほこ):祭礼で曳いたり担いだりする、華やかに装飾された山車の一種。祇園祭では、山や樹木を象徴する「山」と、高い柱を立てた「鉾」があり、各町が趣向を凝らした山鉾を巡行させる。​

須佐之男命と天王信仰

稲荷大神と江戸の稲荷信仰

一方、天王社に先立って四谷へ遷され、のちの四谷天王稲荷の母体となったのが、赤坂一ツ木村*の鎮守として清水谷に祀られていた稲荷社です。この稲荷社の御祭神が、現在の須賀神社の、もう一柱の主祭神である宇迦能御魂命(稲荷大神/ウカノミタマノミコト)でした。

宇迦能御魂命(ウカノミタマ)は、『古事記』に登場する穀物の神で、古くから五穀豊穣をもたらす女神として信仰されてきました。その名の「ウカ」は穀物や食物を意味するとされ、穀物に宿る霊的な力を神聖視する穀霊信仰*を背景に、人々の暮らしを支える「食」の神として親しまれてきました。

須佐之男命(スサノオ)が、牛頭天王との習合を通じて疫病除けの神としても信仰されるようになったのに対し、宇迦能御魂命は、古くからの穀霊信仰を基盤としながら、時代とともにその神格を広げ、人々の暮らしのなかに深く根を下ろしていった神といえます。

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ウカノミタマと神使の狐(イメージ)。狐は稲荷大神の使いである「神使(しんし)」とされ、古くから稲荷信仰と深く結びついてきた。田畑を荒らすネズミを捕らえる益獣であったことから、穀物を司る稲荷大神と結びついたともいわれる。

宇迦能御魂命(ウカノミタマ)は、稲荷信仰を代表する神として「稲荷大神」の名でも広く祀られ、人々からは親しみを込めて「お稲荷さん」と呼ばれてきました。

稲荷信仰は、もともと稲の実りや五穀豊穣を願う信仰で、京都の伏見稲荷大社*を中心に広まり、平安時代には朝廷や貴族の篤い崇敬を集めました。中世には武士や町の人々にも信仰が広がり、五穀豊穣だけでなく、人々の暮らしにさまざまな恵みをもたらす神としても信仰されるようになります。

さらに都市や商業が発展するにつれ、稲荷大神は日々の生業を守り、暮らしに豊かさをもたらす神としても祀られるようになり、商売繁盛や家業繁栄を願う信仰が広がっていきました。

13世紀から15世紀頃の中世関東では、稲荷信仰は鎌倉を中心に広がっており、武蔵国・相模国・常陸国などにも稲荷を祀る社がみられました。これらの多くは、在地の有力武士によって祀られたものや、有力寺社の境内に設けられた祠でしたが、農民が稲荷を祀った例もあり、武士や寺社を中心としながらも、農民にまで信仰が広がっていた様子がうかがえます。

こうした地域に根ざした稲荷信仰は、江戸が都市として発展する以前から、その周辺にもみられました。関八州の稲荷の総司とされた王子稲荷*や、江戸最古の稲荷ともいわれる下谷稲荷社*(現在の下谷神社)などは、古くから地域の鎮守として祀られてきたと伝えられています。

のちに四谷へ遷されることになる赤坂一ツ木村の稲荷社も、もとは村の鎮守として祀られていました。この稲荷社もまた、こうした在地において古くから人々の信仰を集めてきた稲荷社の一つであったと考えられます。​

このように、古くから各地で信仰されてきた稲荷信仰は、徳川家康の関東入国以後、関東における信仰の中心を鎌倉から江戸へと移し、発展を続ける江戸の町で急速に広まりました。

その背景の一つには、参勤交代などによって国元と江戸との往来が盛んになり、大名や武士が国元で信仰していた稲荷を、江戸へ数多く勧請したことがありました。徳川家康自身が三河国から奉遷したと伝わる三河稲荷や、津軽藩主が国元の信仰を江戸へ伝えて建立した津軽稲荷などは、その一例です。

また、武家屋敷では、国元から勧請した稲荷に加え、その土地に宿ると考えられた神や霊を稲荷として祀ることもありました。こうした由来の異なる稲荷は、いずれも屋敷の安泰や家運の繁栄を願う守護神として、大切に祀られていきました。

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四谷荒木町に鎮座する金丸稲荷も、もとは松平摂津守家の上屋敷に祀られた屋敷神でした。江戸の武家屋敷に根づいた稲荷信仰は、いまも荒木町の人々によって大切に受け継がれています。​​

その一方で、江戸の市街化によって新たな町が生まれるなか、稲荷社は武家屋敷の外にも広がっていきました。

江戸では、町中に平気で狐が現れたらしく、田畑や藪が次々と屋敷地や町人地に変わっても、各所に狐穴が残り、狐が人々の暮らしのすぐそばを行き来していたと伝えられています。人々は、稲荷の使いとされる狐の姿や狐穴、土地で起こった不思議な出来事などに神の気配を感じ、祠を設けていきました。

こうして稲荷社は、屋敷の一角だけでなく、火除地*や町の空き地、路地裏などにも設けられ、地域の人々によって祀られるようになりました。稲荷は農耕神としての性格を残しながら、町に暮らす人々の身近な守護神としても、江戸の町に深く根づいていったのです。

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『江戸名所図会』「日比谷稲荷社」より。現在の日比谷神社にあたり、当時は芝口三丁目(現在の新橋駅周辺)の裏通りに鎮座していた。周囲に建物が立ち並び、人々が行き交う様子から、稲荷信仰が江戸の町に深く根づいていたことがうかがえる。

こうして江戸では稲荷社が増え続け、元禄期に入るころには、霊験あらたかと評判を集める稲荷社も目立つようになりました。古くから地域の鎮守として信仰されてきた王子稲荷も、18世紀後半には多くの参詣者を集め、江戸郊外の名所として広く知られるようになったそうです。

土地や屋敷の守護から商売繁盛、家運の安泰まで、さまざまな願いを託せる稲荷は、武家屋敷や町家が次々と建てられる江戸にとって、非常に相性のよい神だったのでしょう。

やがて江戸は、文字どおり「稲荷だらけ」といえる都市になっていきます。武家では屋敷ごとに鎮守として祀られ、町中でも一町に三~五社ほどの稲荷社が勧請されていたといわれるほど、稲荷は町の至るところに見られる存在となりました。

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江戸で「伊勢屋、稲荷に犬の糞」といわれたのも、そんな町の光景をよく表しています。伊勢屋の屋号も、稲荷の祠も、犬の糞も、町の至るところで目にする――それほど稲荷は、江戸の人々の暮らしに深く溶け込んだ、身近な神だったのです。​

  • 一ツ木村(ひとつぎむら)…江戸初期まで現在の赤坂周辺にあった村落。江戸の市街化に伴い町人地・武家地へと再編され、村は解体されて町へと転じた。現在の赤坂四丁目・五丁目付近には、赤坂一ツ木町の名跡が残る。名称の由来は諸説あるが、古・奥州街道の人馬継立(輸送のための人足や馬の手配)の拠点であったことから、「人継ぎ」に由来するとの説がある。

  • 穀霊信仰(こくれいしんこう)…穀物に霊魂が宿ると信じ、その霊を祀ることで豊作を願う、日本古来の信仰をいう。生活基盤である稲作と深く結びつき、新嘗祭(にいなめさい)など、現代に続く農耕儀礼の根幹をなしている。

  • ​伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)…京都市伏見区に鎮座する、全国約3万社といわれる稲荷神社の総本宮。和銅4年(711年)、秦氏が稲荷山の三ヶ峰に稲荷大神を祀ったのが始まりと伝わる。宇迦之御魂大神を中心に五柱の神を祀り、古くから五穀豊穣の神として信仰され、商売繁盛や家内安全など、幅広い崇敬を集めてきた。朱塗りの千本鳥居でも知られる。

  • 王子稲荷(おうじいなり)…現在の北区岸町に鎮座する王子稲荷神社。古くは「岸稲荷」とも呼ばれ、平安時代には源頼義が「関東稲荷の総司」として崇めたと伝えられる。また、大晦日の夜には関八州の狐が近くの榎に集まり、装束を整えて王子稲荷に参詣し、その狐火によって翌年の豊凶を占ったという伝説も残る。

  • 下谷稲荷社(したやいなりしゃ)…現在の台東区東上野に鎮座する下谷神社。天平2年(730年)に創建された江戸最古の稲荷社と伝えられ、行基が伏見稲荷から勧請したという伝説もある。古くから稲荷社として信仰されてきたが、主祭神は宇迦能御魂命ではなく、同じく五穀を司る大年神(オオトシノカミ)である。

  • 火除地(ひよけち)…火災の延焼を防ぐため、建物を建てずに設けられた空き地。大火が頻発した江戸では、防火対策として市街地の各所に設けられた。​

寛永期の合祀によって成立した四谷天王稲荷は、二柱の神をあわせ祀りながらも、天王社と稲荷社、それぞれの由緒を色濃く残していました。

稲荷社には別当寺*の宝蔵院が奉仕し、天王社は神田明神の神職が祭祀を担うなど、両社はそれぞれの来歴を引き継いでおり、祭礼においても、江戸時代から終戦前まで、神輿の出御には天王社の氏子が、帰還には稲荷社の氏子が供奉するという区別があったといいます。

現在の祭礼でも、かつての氏子地域に応じて神輿の屋根飾りを鳳凰と擬宝珠に付け替えるという習わしに、その名残を見ることができます。​

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天王社と稲荷社の二柱の神を祀る、現在の須賀神社の拝殿(イメージ)

このように、二つの信仰をあわせ祀り、四谷の人々の篤い信仰を集めてきた四谷天王稲荷ですが、明治維新を迎えると、大きな転機が訪れます。

慶応4年(1868年)、神仏分離令*によって神道と仏教の分離が進められるなか、牛頭天王など仏教色の強い神号をそのまま用いることが難しくなり、社名が現在の「須賀神社」へと改められました。

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「須賀」という名称は、須佐之男命(スサノオ)が出雲で宮を営んだ地名に由来します。須佐之男命は、八岐大蛇を退治したのち、その地に至り、「吾れ此の地に来たりて心すがすがし(須賀須賀し)」と語り、宮を構えたとされます。これが「須賀の宮」です。

また、須佐之男命はこの宮で「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という和歌*を詠み、妻とともにこの地にとどまることとしたとも伝えられています。

ここから、須佐之男命から大国主神(オオクニヌシ)へと連なる物語が展開し、やがて葦原中国の国づくりへとつながっていきます。「須賀」の名称は、こうした出雲神話*の重要な舞台となった地に由来しているのです。

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須佐之男命が櫛名田比売とともに宮を構えた「須賀の宮」の故地と伝えられる、島根県雲南市の須我神社。その奥宮には、寄り添うように並ぶ三つの巨石「夫婦岩」があり、古くから神聖な磐座(いわくら)として信仰を集めてきた。(イメージ)

須賀神社の社殿*にも、江戸時代から受け継がれてきた歴史が息づいています。

かつての社殿は、文化11年(1814年)に着工し、15年の歳月をかけて文政11年(1828年)に完成したものでした。幣殿*や拝殿*には精巧な彫刻が施され、拝殿の天井には松や鶴が描かれるなど、壮麗な造りだったと伝えられています。その姿は『江戸名所図会』にも描かれ、大正12年(1923年)の関東大震災まで、江戸時代の面影を色濃く残していました。

関東大震災で損傷した本殿*は、大正14年(1925年)に鉄筋コンクリート造に改築されました。しかし、昭和20年(1945年)5月の東京大空襲では、木造の幣殿や拝殿をはじめ、多くの建物が焼失してしまいます。幸いにも本殿とその御内陣*は焼失を免れ、戦後、氏子や崇敬者たちの尽力によって社殿は再建され、現在の姿へと復興を遂げました。

本殿の御内陣には、現在でも、文政2年(1819年)に造営されたものが残されており、平成元年(1989年)には大規模な修復が行われました。幾度もの震災や戦火を経ながら守り伝えられてきた御内陣は、須賀神社に残る江戸時代の貴重な遺構といえるでしょう。​

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東京大空襲で焼失する前の須賀神社の拝殿(イメージ)

八雲立つ、とまではいきませんが——四谷の高台にそびえる須賀神社は、江戸の頃より四谷十八ヵ町の総鎮守として、この地に暮らす人々の祈りを受け止めてきました。

四谷天王稲荷から須賀神社へと名を改め、幾度もの災禍を乗り越え、町の姿が大きく変わっても、人々がこの社に寄せる思いは変わることなく、今日まで受け継がれてきました。

祭りの日の賑わいも、何気ない日々の営みも。須賀神社は、いまもこの界隈を静かに見守り続けているのです。

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現在の須賀神社・男段の最上部から、四谷の街を見下ろす。かつて、この眼下には鮫河橋の町並みが広がっていた。(イメージ)
  • ​別当寺(べっとうじ)…神仏習合の時代に、神社の祭祀や管理を担った仏教寺院のこと。神社に付属して設けられることも多く、僧侶が神前で読経や祈祷を行うなど、神道と仏教が一体となった信仰を支えていた。明治維新後の神仏分離によって、こうした制度は廃止された。

  • 神仏分離令(しんぶつぶんりれい)…明治元年(1868年)に出された神道と仏教の分離政策。神社から仏教的要素を排除することが命じられ、廃仏毀釈の動きも引き起こし、各地の信仰や寺社のあり方に大きな影響を与えた。

  • 出雲神話(いずもしんわ)…『古事記』や『日本書紀』に記された、出雲地方を舞台とする神話の総称。須佐之男命による八岐大蛇の退治や、櫛名田比売との婚姻、大国主神による葦原中国の国づくり、国譲りなどの物語が知られる。日本神話のなかでも重要な位置を占め、現在も出雲地方には、これらの神話にゆかりのある神社や伝承地が数多く残されている。​

  • ​「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」…須佐之男命が櫛名田比売を妻として迎えるにあたり、出雲に宮を構え、妻を囲い守る喜びを詠んだとされる和歌。『古事記』に見える最古の和歌の一つとされる。

  • ​社殿(しゃでん)…神社において神を祀り、祭祀を行うための建物の総称。一般に、本殿・幣殿・拝殿などからなる。

  • ​本殿・幣殿・拝殿(ほんでん・へいでん・はいでん)…神社の社殿を構成する主な建物。本殿は御神体を安置し、神を祀る最も神聖な場所。拝殿は参拝者が神前で拝礼するための建物で、一般に本殿の手前に位置する。幣殿はその間に設けられ、神前への供え物を捧げたり、祭儀を行ったりする場所。神社によっては、これらが一体となった造りも見られる。

  • 御内陣(ごないじん)…神社の本殿の内部に設けられた、御神体を安置する神聖な場所。通常は一般の参拝者が立ち入ることのできない区域で、神社の信仰の中心となる。須賀神社では、文政2年(1819年)に造営された御内陣が、関東大震災や東京大空襲を経て、現在まで受け継がれている。

さて、次のコラムでは、いよいよ江戸の天王祭と四谷の祭礼の形のお話へと移ることにしましょう。続きはまた次の機会に。

改訂履歴

2026年3月 初出
2026年10月 一部加筆・修正

天王稲荷から須賀神社へ

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