序
四谷の総鎮守・須賀神社の縁起や例大祭の起こりをたどっていると、いつの間にか江戸の町の成り立ちへと思いが及びます。四谷の歴史をひもとくと、江戸の都市づくりや町人の暮らしが、次々と顔をのぞかせてくるのです。
この面白さを一度に語り尽くすことはとてもできそうにありませんので、今回は筆を分け、数編のコラムとしてまとめてみることにしました。

つたない筆ではありますが、四谷十八ヵ町が紡いできた歴史や、今の四谷へと受け継がれてきた伝統の姿を、少しでもお楽しみいただければ幸いです。
なお、本文には聞き慣れない言葉も出てまいりますので、ところどころに注釈を付しております。こちらも併せてお目通しいただければと存じます。
江戸の三つの伝馬町
今をさかのぼることおよそ四百年前、天正18年(1590年)のこと。
豊臣秀吉の命により関東へ移封された徳川家康は江戸に入府すると、この地を統治の拠点として整えるため、道路や橋、宿場、輸送の拠点などの都市基盤を計画的に整備していきました。

歌川広重『東海道五拾三次之内 日本橋・朝之景』(1834年頃)より。日本橋は、東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道すべての起点であり、江戸と全国各地を結ぶ交通の中心であった。
その一環として、日本橋を起点とする街道網が整えられ、各街道には宿場*が置かれました。そこでは人馬を常備し、公用の際にこれを提供する伝馬役(てんまやく)が制度として定められます。また、人馬が不足する場合には、周辺の村々が助郷(すけごう)としてこれを補う仕組みも整えられました。こうして、公用輸送の体系である「伝馬制度」の基盤が形づくられていきます。
伝馬役は、将軍や幕府の公用書状の輸送、諸大名の参勤交代の補助、さらには軍事や緊急時の物資輸送などを担う、きわめて重要な役務でした。

歌川広重『東海道五拾三次之内 藤枝・人馬継立』(1834年頃)からのイメー ジ。江戸時代の街道では、宿場ごとに人足や馬を交代させ、荷物などを次の宿場へと継ぎ送っていた。
幕府は、この伝馬役を担わせるため、江戸近郊の古村*に住んでいた人々を日本橋周辺に移住させました。慶長年間(1596~1615年)には、日本橋北側に、日光・奥州街道や中山道の江戸口(江戸側の出入口)にあたる輸送を担った「大伝馬町」と、江戸府内の伝馬御用を務めた「小伝馬町」が成立します。
一方、日本橋南側(現・中央区京橋付近)には、東海道の江戸口にあたる輸送を担った「南伝馬町」が置かれ、これら三町は総称して「三伝馬町」と呼ばれました。
これら三伝馬町は、街道に設けられた宿駅*(宿場)とは異なり、日本橋を起点とする公用輸送を一手に担い、各街道へと人馬を振り分ける役割を果たした、幕府直結の伝馬拠点でした。

『江戸名所図会』「大伝馬町 木綿店」(1834年)より。大伝馬町は、江戸初期に伝馬役を担う町として成立し、のちに木綿問屋が軒を連 ねる一大商業地へと発展した。
町人身分でありながら幕府直結の任務を担い、疫病や事故とも隣り合わせの過酷な職務に従事していた三伝馬町の町人たちは、疫病除けの神として信仰されていた牛頭天王*(ごずてんのう)を篤く崇敬し、神田明神の境内にあった牛頭天王社を産土神*(うぶすながみ)として仰ぎました。
興味深いことに、神田明神の境内には三つの天王社*があり、三伝馬町がそれぞれ一社ずつを町の守り神として祀っていました。すなわち、南伝馬町は一ノ宮を、大伝馬町は二ノ宮を、小伝馬町は三ノ宮を持ち社としていました。なお、三ノ宮はのちに小舟町へと持ち分が移り、祀りの担い手も改められました。

『江戸名所図会』「神田明神社」(1834年)より。江戸総鎮守として広く崇敬された神田明神の境内を描いたもの。本殿の右手(絵では左側)には、牛頭天王を祀る三天王社が描かれており 、江戸時代の神田明神における天王信仰の様子をうかがうことができる。
神田明神に祀られた三つの天王社は、江戸時代になって三伝馬町の人々が新たに祀り始めたものではなく、いずれもそれ以前からの由緒を持つ古社でした。
なかでも一ノ宮は、大宝2年(702年)の創建と伝えられ、「江戸最古の地主神」として、太田道灌ら関東の武将からも崇敬されました。
こうした古くからの天王社が、江戸の町づくりが進むなかで三伝馬町の町人たちの信仰と結びつき、それぞれの町の「お天王さま」として篤く信仰されていったのでしょう。

歌川広重(初代)『江戸名所 神田明神境内眺望』(1854年)より。江戸の総鎮守として広く崇敬された神田明神の境内から、江戸の町並みを見渡した風景を描いた錦絵。
慶長18年(1613年)、南伝馬町の町人たちは、神田明神の天王社の神輿を担いで江戸城大手門へ向かい、徳川将軍家に祭礼を奉納しました。これが史料上確認できる最初の「江戸の祭」であり、江戸における「天王祭*」の始まりと伝えられています。
その後、神田明神の三つの天王社では、三伝馬町を中心に、六月上旬から中旬にかけて相次いで天王祭が行われるようになります。 神輿は江戸の市中を巡り、祭礼のたびに町々は大いに賑わいました。こうして三天王祭は、江戸の町人たちに親しまれる夏の風物詩として定着していったのです。

『江戸名所図会』「南伝馬町 祇園会御旅所」(1834年)より。祭礼の ために設けられた御旅所に神輿を迎え、そこに集う人々の熱気と賑わいが描かれている。
このように三伝馬町の人々によって支えられた天王信仰*は、江戸の町々へと広がり、都市の守り神として深く根づいていきました。その流れは、やがて江戸の西端にあたる四谷にも及ぶことになります。
ではここから、話を四谷へ移してみることにしましょう。

歌川広重『絵本江戸土産』「牛頭天王 其二」(1860年代頃)からのイメージ。江戸の天王祭の様子を描いたもので、神輿や山車が町を練り歩き、大勢の人々で賑わう光景が広がっている。江戸の人々にとって、天王祭がいかに盛大で活気に満ちた祭礼であったかがうかがえる。
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宿場/宿駅(しゅくば/しゅくえき)…街道に設けられた人馬継立の拠点で、公用の輸送や旅人の宿泊・休息を担った町をいう。幕府は伝馬役・助郷によって人馬の供出を制度化し、五街道をはじめとする交通網を支えた。
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江戸近郊の古村…徳川家康が江戸に入る以前、江戸城の周辺には宝田村・千代田村・祝田村などの集落が存在していた。家康は江戸入府後、これらの村の住民に伝馬役を担わせたが、慶長11年(1606年)の江戸城拡張に伴い、人々を日本橋周辺へ移転させている。
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牛頭天王(ごずてんのう)…疫病を司り、またそれを鎮める神とされる神仏習合の神。京都祇園社(現・八坂神社)の祭神として広まり、天王信仰の中心となった。須佐之男命と同一視され、祀られることが多い。
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産土神(うぶすながみ)…その人が生まれた土地に結びつく守護神。古くからその地に鎮座し、土地とそこに暮らす人々を守る神とされる。似た概念に氏神があるが、こちらはもともと血縁集団(氏族)の守護神を指した。やがて時代が下るにつれて、氏神も地域の守り神へと性格を変え、産土神と重なるものとして理解されるようになった。
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三つの天王社…江戸初期には、須佐之男命・五男三女(八王子)・奇稲田姫(くしなだひめ)という三柱を分担して祀っていたとされる。牛頭天王信仰の広がりとともに次第に一体的な信仰対象として理解されるようになり、三社とも須佐之男命を主祭神として祀るようになったと考えられる。
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天王祭(てんのうまつり)…牛頭天王を祀る祭礼。疫病退散や厄除けを願う夏の祭りとして各地で行われ、神輿の渡御によって町を巡り、穢れや災厄を祓う鎮疫祭の性格を持つ。京都・祇園社の祭礼である祇園祭に由来し、祇園祭とも呼ばれる。
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天王信仰(てんのうしんこう)…牛頭天王を疫病を鎮める神として祀る信仰。京都祇園社を中心に中世以降広まり、夏の天王祭などを通じて都市や村落の災厄除け・疫病退散を祈願する民間信仰として各地に広がった。
時代は下り、徳川家康の没後、三代将軍・徳川家光の治世を迎えます。この頃になると、家康の構想どおり、江戸の街は幕府の統治拠点として本格的に機能しはじめ、市街地も拡大を続けていきました。
こうした発展のなかで幕府は、江戸を「天下の府」にふさわしい都市へと整備するため、諸大名を動員して、江戸城や城下町の大規模な改修・拡張工事を進めていきます。これは「天下普請*」と呼ばれ、諸大名に工事を負担させることで、その力を統制する狙いもありました。

葛飾北斎『冨嶽三十六景 本所立川』(1831年頃)より。材木を運び、積み上げ、加工する職人たちの活気ある姿から、江戸の町づくりを支えた人々の営みがうかがえる。
こうした城郭整備の影響は、江戸の外縁部にあった四谷にも及びました。
寛永11年(1634年)、江戸城外堀の普請に伴い、麹町一帯(現・千代田区)や赤坂(現・港区)など、外堀の予定地にあった寺社が四谷へ移されました。こうして四谷には、南寺町(現・須賀町の一部)、寺町(現・若葉二丁目の一部)、北寺町(現・愛住町周辺)が形成され、やがて寺院の門前にも町屋が生まれていきます。
そうした中、清水谷(現在の千代田区紀尾井町周辺とみられる*)にあったと伝わる、赤坂の一ツ木村の鎮守・稲荷社も、関係する寺院*とともに、四谷の南、鮫河橋の谷を見下ろす台地の上へと遷座しました。この遷座が、後に四谷総鎮守となる須賀神社の礎となりました。

『江戸名所図会』「日宗寺 戒行寺 汐干観音」(1834年)より。四谷南部の寺町とその周辺に位置する日宗寺・戒行寺・汐干観音(真成院)と、その周辺の町並みを描いたもの。寺院が立ち並び、坂道に沿って門前町が広がる様子から、江 戸時代の四谷の町の姿がうかがえる。
このころの四谷には、旗本*や御家人*の武家屋敷と、移転してきた寺社を中心とする寺町が広がり、町人地の形成はまだ限られたものでした。また、武家地には、御先手組など、江戸城の警備を担う組の与力*や同心*が集住する組屋敷(大縄地)*も設けられていたことが分かっています。
こうした寺社や武家屋敷を中心とする町割りには、幕府の防衛上の意図があったとする見方があります。江戸初期、四谷を通る甲州街道は、万が一江戸城に変事があった際に将軍が甲府方面へ退避する経路として想定されていたといわれ、その沿道の寺社や武家屋敷にも防御の役割が期待されていたのでしょう。

市谷見附付近から望む、現在の江戸城外濠(イメージ)。この外濠は、寛永13年(1636年)の天下普請によって開削されたもので、江戸城の防御を担うとともに、四谷の町の形成にも大きな影響を与えた。
江戸城外堀の普請はその後も続けられ、寛永13年(1636年)には、江戸城惣構え(そうがまえ)*の仕上げとなる大規模な天下普請が行われました。
このとき、牛込見附(現・飯田橋駅周辺)から市谷、四谷を経て赤坂見附に至るひと続きの外堀が開削され、石垣の築造や見附の整備も進められました。こうして、江戸城外曲輪*の防衛線が整えられます。
この普請では、牛込見附から市谷見附付近までは神田川へと続く旧紅葉川の谷筋を、喰違見附(現・紀尾井町周辺)から赤坂見附までは溜池方面から延びる谷筋を利用しました。一方、四谷見附から喰違見附までの区間には、麹町方面から続く台地の尾根が横たわっており、これを大規模に掘り下げて外堀を開削する必要がありました。
この四谷付近の外堀の開削には、1,000人もの人足が関わったとされ、普請に携わった信州松代藩主・真田信之*の名にちなみ、真田濠(さなだぼり)と呼ばれるようになりました。
ここには、枡形虎口*(ますがたこぐち)という堅固な防御施設を備えた四ツ谷御門(四ツ谷見附)が設けられ、江戸城への出入りを厳重に監視する関門となりました。

江戸時代の四ツ谷御門(イメージ)。寛永13年(1636年)の天下普請によって整備された江戸城外郭の城門で、甲州街道の出入口にあたる重要な場所であった。現在も四ツ谷駅付近には、御門の石垣の一部が残されている。
この大普請以前、麹町台地と四谷台地はもともと一体の地形をなし、その一帯では、江戸城の防衛を念頭に武家屋敷や寺社を配する町割りが進められていました。しかし、外堀の開削によって二つの台地は大きく分断され、その境に四ツ谷御門が設けられました。
こうして四谷は、外堀の内側に残る、武家町として発展する番町や、武家屋敷の生活を支える町人地として栄える麹町と袂を分かち、四ツ谷御門の外側に広がる交通の要衝として、独自の発展を遂げていくことになります。
また、この普請に伴い、甲州街道沿いに広がっていた麹町の町人地の一部が外堀の外側へ移され、四ツ谷見附の向かい側(現在の四谷一丁目付近)に、麹町十一丁目から十三丁目が形成されました*。
寺院の門前町を除けば、これが四谷における最初の町人地とされています。これを先駆けとして、四谷には新たな町屋が次々と生まれ、町のにぎわいも広がっていくことになるのです。

大正期の真田濠(イメージ)。左側に四ツ谷駅が見え、右手に広がる外濠は、現在では埋め立てられ、上智大学のグラウンドとなっている。
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天下普請(てんかぶしん)…江戸幕府が全国の大名に命じて行わせた大規模な土木工事。江戸城の築城や城下町整備、河川工事などがあり、大名に労力と費用を負担させることで幕府の権威維持と大名統制の役割も持った。
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社に関係する寺院…神仏習合の時代、神社の祭祀や管理を担った寺院を別当寺(べっとうじ)という。四谷牛頭天王社の別当寺は稲荷山福田寺宝蔵院で、稲荷社とともに赤坂から四谷へ移されたと伝えられる。その後、明治の神仏分離によって別当寺の制度は廃止され、宝蔵院も廃寺となった。
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清水谷は現在の千代田区紀尾井町周辺…稲荷社の旧所在地については、須賀神社の由緒関係資料に「麹町十丁目」「麹町十一丁目」などの異なる記述があり、正確な位置は確定していない。
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旗本・御家人(はたもと・ごけにん)…いずれも江戸幕府の将軍直属の家臣(直参)で、将軍への直接の謁見(御目見)が許された者を旗本、原則として許されなかった者を御家人と呼んだ。一般に旗本の方が格式や禄高が高く、ともに幕府の行政や警備など、さまざまな役職を担った。
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与力・同心(よりき・どうしん)…江戸幕府の町奉行所や御先手組などに置かれた役職で、主に御家人が務めた。与力は上役を補佐し、配下の同心を指揮する立場にあり、同心はそのもとで実務を担った。職務は所属する組織によって異なり、江戸城の警備や市中の治安維持、犯罪の取り締まりなどに従事した。
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組屋敷・大縄地(くみやしき・おおなわち)…江戸時代、幕府から与力・同心などの組に一括して与えられた屋敷地。土地は組の構成員にそれぞれ割り当てられ、同じ組に属する武士たちがまとまって居住した。組屋敷は大縄地とも呼ばれ、江戸の各地に設けられた。
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惣構え(そうがまえ)…城下町全体を囲む外郭の防御線をいう。中国の城郭や中世ヨーロッパの都市のように、都市全域を堀や城壁で囲う点に特徴がある。総構えともいう。江戸城では外堀や土塁・門を巡らせ、おおむね現在の千代田区・中央区・港区北部に及ぶ範囲を含み、軍事的防衛と都市統制を兼ね備えた構えであった。
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外曲輪(そとぐるわ)…城郭の防御施設の一つで、本丸・二の丸などの外側に位置する郭をいう。惣構えが城下町全体を囲う広域の外郭線であるのに対し、外曲輪は城域を構成する一郭であり、堀や土塁・石垣によって区画される。江戸城では外曲輪が武家地や町人地の配置・境界を形づくり、現在の地名でいえば、おおむね丸の内・大手町・有楽町・霞が関・麹町・番町などがこれにあたる。
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真田信之(さなだのぶゆき、1566〜1658年)…戦国時代から江戸初期にかけての武将で、真田昌幸の長男、真田幸村(信繁)の兄。関ヶ原の戦いでは父や弟と袂を分かって徳川方につき、上田藩主を経て信州松代藩の初代藩主となった。寛永13年(1636年)の江戸城外堀普請にも参加した。
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枡形虎口(ますがたこぐち)…城郭の出入口に設けられる防御施設の一種。門の内外に直角に折れる区画(枡形)を設け、敵の進入方向を制限して足止めし、側面や背後から攻撃できる構造としたもの。石垣や土塁、多重の門を組み合わせることで防御力を高め、江戸城の見附にも広く用いられた。
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麹町十一丁目から十三丁目…江戸城外堀の開削に伴い、四ツ谷御門の外側に移された町人地で、現在の新宿区四谷一丁目・二丁目の一部にあたる。明治11年(1878年)の麹町区成立時には同区に属したが、明治13年(1880年)に四谷区へ編入され、昭和18年(1943年)に四谷一丁目・二丁目へと改称された。
天下普請と四谷の起こり
四谷の伝馬町と天王社
続く寛永14年(1637年)には、九州の島原・天草で、いわゆる「島原・天草一揆*」が勃発します。抑圧された農民とキリシタン(キリスト教徒)による一揆として知られるこの乱ですが、実際には旧小西家*の遺臣や浪人らも加わっており、戦国の残り火を思わせる武装蜂起の様相を帯びていました。
この大規模な一揆を鎮圧するため、幕府は江戸から九州の戦地へ大量の武器や兵糧、人員、書状などを送り出す必要に迫られ、江戸の兵站(物流)体制そのものが試される重大な局面となりました。

斎藤秋圃『島原陣図屏風』(戦闘図、1837年)をもとにしたイメージ画。原城に立てこもる天草四郎ら一揆勢に対して、幕府軍が総攻撃を仕掛けた様子を描いたもの。
乱の鎮圧後、幕府は公用輸送体制の整備を進め、各街道の宿駅(宿場)に置かれていた伝馬役・助郷の仕組みを、より大規模な輸送に対応できるよう強化していきました。
その過程で、各街道へ物資を送り出す江戸の拠点の整備も進められ、従来の日本橋周辺に加え、各街道の江戸口にも新たな輸送拠点が求められるようになります*。
甲州街道の江戸口に位置する四谷にも、こうした流れの中で伝馬町が置かれることとなりました。

歌川広重『名所江戸百景 四ツ谷内藤新宿』(1857年)より。甲州街道沿いに栄えた内藤新宿の町並みを描いたもの。手前に馬の後ろ姿を大きく配し、道に落ちた馬糞まで描くことで、多くの荷馬が行き交う宿場町のにぎわいを表現していると考えられる。
寛永15年(1638年)、島原・天草一揆において「昼夜を分かたず人馬の御用を勤めた」功により、四ツ谷御門外の明地(空き地)大縄七百四十間が、日本橋大伝馬町に与えられました。この「大縄」とは、縄をもっておおよその土地の規模を定めた給地を意味すると考えられ、七百四十間を長さに見れば約一・三キロメートルほどになります。その規模は、四ツ谷見附から四ツ谷大木戸へと続く町並みの長さにもおおむね重なり、のちに形成される四谷の町場の骨格を予感させます。
外堀をはさんで四ツ谷御門の西向かい、現在の四谷一丁目や四谷本塩町周辺の一帯は、麹町十一丁目から十三丁目の町屋が移転してくる以前には、人家もまばらで、ほぼ未開発の土地であったとされています。
日本橋大伝馬町の人々は、この手つかずの土地に四ツ谷伝馬町*を起立し、あわせて塩問屋を配した四ツ谷塩町*も設け、公用輸送を支えました。

四ツ谷見附周辺の町地の成立時期を示した図。青は寛永13年(1636年)の外堀開削に伴って成立した町地、橙は寛永15年(1638年)に大伝馬町が形成した町地、紫はその後に成立した町地を示す。著者作成。
四ツ谷伝馬町は、日本橋大伝馬町の機能を補う形で設けられた伝馬役の拠点でした。大伝馬町の人々はこの地に出役(他所へ赴いて役務に就くこと)して居住し、人馬を常時確保して輸送に備えるとともに、不足する場合には周辺の村々からこれを供出させる仕組み(助馬役)を運用しました。
また、この時期、甲州街道(四ツ谷大道)の整備も進み、外堀沿いの通りから四ツ谷御門前を迂回せず、直接四ツ谷大木戸方面へ向かう経路が開かれました。これにより、四ツ谷伝馬町から四ツ谷大木戸に至る道筋はほぼ一直線に通り、その沿道には町屋が軒を連ね、ひと筋の町並みが形づくられていきます。人の往来も増え、四谷の町人地は、こののち急速に発展していくことになります。

『江戸名所図会』「四谷大木戸」(1834年)より。甲州街道の江戸の出入口にあたる四谷大木戸と、その周辺を行き交う人々のにぎわいが描かれている。
四ツ谷伝馬町の成立を担った日本橋大伝馬町の人々は、町内に小祠を建て、自らの産土神であった神田明神の牛頭天王社(二ノ宮)をこの地に迎え入れて祀りました。
町が次第に繁昌していくにつれ、人々はそれを牛頭天王の御利益と受け止め、信仰を深めていきました。また、当時の江戸ではたびたび疫病が流行しており、疫病除けの神である牛頭天王は、人々の篤い信仰を集めていました。
こうしたなか、町人たちの総意によって、寛永20年(1643年)前後には、先にこの地へ遷されていた稲荷社へ牛頭天王が遷され、二柱をともに祀る社となりました。のちに「四谷天王稲荷」などと呼ばれる、現在の須賀神社の原形がここに成立したのです。
以後、神職は神田明神の社家が兼務し、別当は稲荷山福田寺宝蔵院が務めました。また、天王は四谷一帯の総鎮守として、稲荷は鮫河橋・権田原の鎮守として祀られるようになります。
こうして、大伝馬町の人々によって四谷へ迎えられた「お天王さま」は、やがて四谷の町々を広く守る神となっていきました。稲荷と天王をともに祀るこの社も、次第に四谷の人々から広く崇敬され、「四谷惣町の氏神」として仰がれるようになります
そして、その信仰は時代を越えて受け継がれ、今日の須賀神社――四谷十八ヵ町の総鎮守へとつながっていくのです。

『江戸名所図会』「四谷牛頭天王社」(1834年)より。現在の須賀神社の前身である四谷牛頭天王社の境内を描いたもの。画面下部には、境 内へと続く石段が描かれている。
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島原・天草一揆(1637〜1638年)…肥前・島原と肥後・天草で起きた大規模な一揆。重い年貢や領主の圧政、キリスト教弾圧への不満が背景にあり、農民やキリシタンが蜂起した。幕府軍に鎮圧され、以後キリスト教禁制が強化された。
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小西家…豊臣秀吉の近侍・寵臣であった小西行長(こにしゆきなが)を祖とする大名家。行長は堺の商人の子として生まれ、才を見出されて武士となった。豊臣政権下では舟奉行を務め、天草を含む肥後国二十四万石を領した。文禄・慶長の役でも活躍したが、関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗れ斬首され、これにより小西氏は滅亡した。なお、行長は敬虔なキリシタンとしても知られる。
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江戸口の新たな輸送拠点…日本橋大伝馬町には、甲州街道の江戸口にあたる四谷伝馬町が与えられたほか、日本橋南伝馬町には、中山道の江戸口に相当する赤坂表伝馬町および赤坂裏伝馬町が与えられた。
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四ツ谷伝馬町(よつやてんまちょう)…かつて四谷に存在した町名。初めは「四谷新大伝馬町」と称し、一~三丁目が設けられた。その範囲は、おおむね現在の四谷一~三丁目に相当する。
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四ツ谷塩町(よつやしおちょう)…かつて四谷に存在した町名。一~三丁目が設けられた。一丁目は現在の本塩町に相当するが、二・三丁目はすこし離れ、現在の四谷三丁目・四丁目付近に所在した。
時代は再び流れ、四代将軍・徳川家綱の治世となります。この時代は、まだ町火消し*の制度が成立する前であったこともあり、江戸の町では火災が多発していましたが、明暦3年(1657年)には、江戸初期最大の大火である明暦の大火*が発生しました。振袖火事として知られるこの火災は、未曾有の規模となり、本郷から芝高輪に至るまでが焼失し、江戸城本丸も消失するなど、江戸市中に甚大な被害をもたらしました。
しかし、外堀の外側に位置した四谷では被害は比較的軽微にとどまり、これを契機として、さらなる拡大期を迎えることとなります。

浅井了意『むさしあぶみ』1661年 より。
大火以降、幕府は防火と都市再編の観点から屋敷地の再配置を進め、諸大名の間でも大火への備えとして郊外に下屋敷・中屋敷を構える動きが広がっていきます。延宝年間(1673年~1681年)以降には、現在の荒木町に置かれた松平摂津守家の下屋敷や、四谷尾張町*の尾張徳川家の中屋敷をはじめ、四谷や赤坂といった外縁部にも多くの大名屋敷が設けられました。
また、町人の間でも、都市中心部の過密や度重なる火災への不安に加え、地代の高さや街道沿いの商機を求めて、江戸外縁部へと生活と商いの場を移す動きが広がります。
これに伴い、四谷では新たな町人地が次々と形成され、既存の武家地の一部も段階的に町人地へと転換されていきました。貞享年間(1684年~1688年)頃には、四ツ谷御箪笥町や四ツ谷坂町をはじめ、周辺の町々でも同様の動きがみられました。

尾張屋板『江戸切絵図』「四ッ谷絵図」1863年
こうした武家地の展開と町人地の拡充が重なり合うなかで、四谷の町はしだいに骨格を整え、元禄期を迎える頃には、町割りと人口の大勢はおおよそ定まり、町のかたちはほぼ完成を見たと考えられます。
かくして四谷は、城外の一隅から花のお江戸八百八町の一街区へと姿を変え、やがて天下の江戸を支える町の一つとして、その連なりの中に加わっていくこととなったのです。

『江戸名所図会』「日本橋」1834年
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町火消し(まちびけし)…町火消しとは、江戸の町人地の消火を担った組織で、享保期(1716年~1736年)に幕府が制度化した。町火消しは町々から人足を出して編成され、いろは組などに分かれ、火災時には家屋を打ち壊して延焼を防ぐ破壊消火を行った。それ以前の江戸では、大名に課された大名火消や幕府直属の定火消が主に消火にあたり、町人もこれを補助する形で対応していた。
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明暦の大火(めいれきのたいか)…明暦3年(1657年)に江戸で発生した大火。「振袖火事」とも呼ばれ、本郷の本妙寺付近を火元とする説がある。江戸城本丸や武家地・町人地の大半を焼失させ、死者は数万人に及んだとされる。以後、都市改造や防火体制の整備が進められる契機となった。
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四谷尾張町(よつやおわりちょう)…かつて四谷に存在した町名。現在の四谷一丁目の一部であり、その名称は尾張名古屋藩中屋敷に由来する。
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四ツ谷御箪笥町(よつやおたんすちょう)…かつて四谷に存在した町名。現在の四谷三栄町の一部。貞享2年(1685年)に町屋として起立。町名の由来は不詳。
さて、ここまで四谷の町の成り立ちと、その礎となったあれこれ、また四谷総鎮守・須賀神社へと続く四谷天王稲荷社の縁起について述べてきました。
次のコラムでは、さらに一歩踏み込み、四谷天王稲荷社に祀られていた二柱の御祭神(御両社)と天王信仰についてお話しします。続きは、また次の機会に。
改訂履歴
2026年3月 初出
2026年10月 一部加筆・修正
